6.08.2016

27

それでは私は、どこへ向かえばよいのですか。

――と問いたい気分だ。27歳ともなれば、どんな人間でも、ある程度先が見えてくるものだろうか。私はこういう人間であり、私にはこういう道がある……。ある文学者が、27歳という年は、突然啓示が現れる年だ、というけれど。私の周りの人間は、大人に見える。私がただひとり子どものままで、取り残されたような気分になる。

人生をどのように過ごすべきか、ということはあまり関心がないものの、世界とどう和合するかという点が気になっている。これは言ってしまえば資産家の心理である。私は世界との関わりで煩わしい思いをしたくないのである。そういうことは、別個の人格に任せるとして……私はより高みに昇りたいのである。

私はもうあまり下世話な世界とは関わりを持たないようにしたいと思っている。低俗な人間から離れようというのだ。社会のなかに生きる私はどうしてもそういう人種と関わりにならなければならない。「最低の存在」であるところのサイコパスとも関わらなければならない。しかしそういう人間と表面上では密に関わるように見えても、心を遠く離す術を知った。またそういう態度をとっているとサイコパスの方でも、「こいつはエサにならない」と嗅覚でわかるようだ。

私は世俗的な物事を無軌道に任せることにした。つまり、社会存在としての私は、どのように転ぼうと安泰なのである。なぜというに、経済的困窮に襲われれば私はその不幸を味わうことができるし(そうして新たな確実な智慧を身につけることができる)、成功すればそれはもちろんそれで良いのである。その「失敗と成功」は、私の精神的自己に対し、なんら影響を及ぼさない。だから、私は成功を「意志」することはない。これが自由ということである。

だから社会存在としての私にリソースを振ることはあまりしたくない。どちらだろうと構わないのである。私の関心は、もっとずっと重要なこと……。世界との和合という点に、興味があるのである。どうやら私は、「解脱」という仏教用語が理解できるという気がする。私はとくべつどの宗教が好きというわけではない。仏教も好きではないし、セム系一神教はより馴染みがない。

ただ最近の感覚として、世界を拒絶せずに、受け入れようという心持ちがあるのである。世人は、あたりまえのようにこの感覚を享受しているのかもしれない。ロカンタンの記述するところの、「黄色い壁」という奴だ。神経症の私は、どうも世界と自己を切り離して考えてしまうのである。自己に固執してしまう。他者を、自己に接触不可能だと考える。これは誤りだと私は考える。「個人」だの、「プライバシー」だの、そういったものは迷妄である。偽りの個人主義から抜け出て、究極的に普遍的な世界、それは必然的に抽象的、呪術的世界になるのだが、そういう世界のことを知らなければならないと考える。

1 件のコメント:

  1. "Don't think.feel! It's like a finger pointing away to the moon. Don't concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory." ブルース・リー

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