6.11.2016

対人恐怖の克服

昨日はSと家でビーフシチューを作って食べた。Sは私が豚肉と牛肉を食べないのをそれとなく知っているから、鶏肉でよいと言ってくれた。鶏肉と、タマネギ、にんじん、じゃがいもを炒め、これを煮る。そうして、ルーを入れる。軽く焼いたフランスパンと一緒に食す。簡単な料理だが、とてもおいしかった。

Sは車で帰るから、いつも私ばかりが酒を飲む。私は、酒を飲んでも取り乱すことはない。毎日酒を飲んでいるからだ。それでも、なんだか嬉しいような気持ちがして、上機嫌であることを隠せなかった。昨日はとくにそうであり、饒舌になった。私は、ひとと一緒にいて嬉しいことなどなかったのである。つねに、他者に悩まされてきた。私は孤独のなかで本を読み、孤独に酒を飲んでいた。それに満足していたはずだ。これはどういう変化なのだろう。

ギーターに「人間(じんかん)にあって迷わず」という言葉がある。その前後を付記すると「私が不生であり無始である、世界の偉大な主であると知る人は、人間にあって迷わず、すべての罪悪から解放される」。私はとくだんヒンドゥー教に信仰を持っているわけではないが、さいきんの私は「人間にあって迷わず」なのである。とは、ひととの関わりのなかでなにか悩みを持つことがない……言ってしまえば、対人恐怖的性質が改善されたのである。

このことの意味は、私は自分がただ自然であるだけで、他者が自分を受け入れることを知ったのである。世俗のひとびとは、なにか「能力」を身につけることで、他者に受け入れられる「資格」を持つと考える。これは「コミュニケーションスキル」であったり、ファッションや化粧のような「美的性質」だったり、法令や善性のような「道徳」であったり、あるいは金銭や身分のような「権力」であったりする。しかしそのいずれの資格も不要であることを知ったのである。

それどころか、これらの要素はかえって邪魔になる……。上のような資格をもっていると、逆にひとびとに不信がられるのである。そこにあるのは、まずもって虚飾であり、不義である。

まっとうで純粋な人間は、自然であるだけでその言動がおもしろく、ただ佇むだけで美しく、ただ行為するだけで正しく、また在るだけで気高いのである。私がそのような性質を持っていると言うつもりはないが、そのような存在に近づいていると思う。これはSに指摘をされて、初めて気づいたことである。

このような段階に進めば、いよいよ「解脱」も近いのかもしれない。私はことさらなにかの宗派を信仰するということがないが、宗教的感情はやはり持っている。



最近Kindleを買ったので、西田幾多郎「善の研究」を読むことにしている。数年前は数ページ読んで挫折したのだが、いまは自然に読める。どころか、当たり前のことをくどくどしく記述しているように思える。あらゆる書物は、秘密教義である。時期がくると、扉が開かれるものである。


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