6.16.2016

悟ったおじさん

昨日は午前で仕事を終えたので、何をしようか考えていた。

前々からしたかったシュノーケリングをしようと思い、シュノーケリングセットをバイクに詰め込み、海岸をあたってみたが、風が強く、雲が出ており、寒そうなので辞めた。

それで、ある人物の記念館へ行こうと思ったが、定休日であった。

しょうがないので、近所の美術館へ行くと、あまり有名でない写真家の写真展があった。写真展は初めてだったが、一般的な風景写真の他に、芸術としての写真のあることを知った。構図のとりかたは絵画に似通っているけど、ぼかしなどカメラ特有の遠近表現については、これは絵画と違う楽しみ方があるようである(この遠近表現はすべての作品で見られた)。また、光のにじみもおもしろい効果である。

カメラは絵画に比べてずっと手頃な装置であるように思う。それこそワンタッチで風景を切り取れるのである。だから油絵をやっているという人より、カメラを趣味にしている人の方が多いのだろう。もちろん、プロの写真家になろうとなれば厳しい競争があるのだろうが。

それで写真展は五百円もとられた割には作品数が少なくものたりなかった。また、閲覧者も私ひとりでなんとなく気まずかった。

あまり暑くないようなので自転車に乗ることにした。タイヤに空気を入れ、チェーンに油を差し、日焼けどめを塗って、15kmほど走ったところで雨に降られた。小気味のよい小雨だったが、財布やカメラが濡れるとまずいので、引き返した。往復30kmだが、山を越え、下り、また越えるという、まあ気分のよい運動になった。

家で休んでいると天気が晴れたので、スーパーにバイクで出かけた。そこで、半額になっていたチルドのラーメンと、地産のニンニクを買った。家に帰って、チャーハンを炒めた。それと、ラーメンをゆでて、ニンニクはすりつぶしてスープに混ぜた。これで、おなかが苦しくなるまで食べた。ビールを、500mlを三本買っていたが、二本しか飲めなかった。

肉体の疲労と、胃袋の満足とで眠たくなったので、十七時にもかかわらず床に就くことにした。エアコンの冷気にあたりながら、あっさりと眠りに入った。そのまま翌日の五時まで目覚めなかった。

起きてみると、非常に気持ちのよい気分である。ひさしぶりに十全な気分。音楽がよく聞こえるし、肌はぴんと張り、何かをしてみようかという意欲のある一日である。


考えてみると、私は一個の悟りに近いものを得たように思う。

というと大仰だが、神経症者にとって必要なものは抗不安薬やカウンセリングではなく、この「悟り」なのである。これは森田療法の根本概念でもある。

「悟り」とは一般に仏教者などが長い修行の果てに得られるものである。神経症者も長い苦しみのうちにある。それはまた一般の病苦とは違う、だれの理解もない孤独の苦しみである。なぜというに、ふつうの人間がふつうに過ごせる環境において、神経症者は並々ならない苦しみを感じるからである。そういうわけで、神経症者はわけもわからぬまま、苦しみの輪のなかに閉じ込められなければならない。

仏教者は能動的に苦しみを味わう。神経症者はわけもわからぬうちに苦しむ。しかしこの両者は同じ苦しみであることに違いない。そして苦しみは知性を発達させる。神経症者にも、ある悟りの段階が生まれる。

悟りは完治とは別である。神経症が完全に治ることはないのだろうと私は思う。それでも、病気の苦しみがほとんど消えるようなある瞬間がある。

私はこのままで良くこのままですでに「仏」なのだ、と思うようなときである。神経症者の苦しみは傍目にはバカバカしいものである。癌の苦痛や恋の離別の苦しみとは違う。ゆえにこんなバカバカしい苦しみを持つ人間は人として異常であり、下等であり、下等な悩みに縛られる自分もまた下等なのだ、と思ってしまう。

しかし神経症者はそのままで「仏」なのである。アホなことに悩むが、それゆえに神に近いのである。このことはインド哲学や仏典においてすでに語られている。語られているのだが文章の理解と、霊魂における理解は違う。この全人格的な理解、人格の大改変こそ、神経症者における悟りである。

自分が仏だと悟るような絶対的自己肯定、自己充足感といったものが、神経症者に必要であると言えるのではないかと思う。


1 件のコメント:

  1. 苦しみを感じることが多くても、誰も気づかない楽しみを発見することも多い。あなたの感性はあなただけのものだから大切にしてほしい。だから、そのままで良く、完治とか考える必要ないと思うよ。

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