6.12.2016

まにまに

図書館へ行って読書をしようと思ったが子どもが多くてうるさいので帰宅した。日本の子どもはうるさい。田舎の子どもは特にそうだ。海外にたいして行ったわけではないけど、スーパーとかレストランとか、何でもない場所で子どもが「絶叫」しているのは日本くらいだと思う。なぜなのかはわからない。海外の子どもでも、走ったり、飛び跳ねたりということはある。しかし、「絶叫」はしない。

日本では、「元気な子どもは声が大きい」という文化風土でもあるのかもしれない。たしかに、「元気よくあいさつしましょう」という教育はある。「大きな声でお歌を唄いましょう」という声かけはある。だいたいの場合、「丁寧に挨拶しましょう」とか、「上手に唄いましょう」とはならない。そのようなことを子どもに「押しつける」ことは不憫なのはわかる。子どもにそんなことを求めてもしょうがない。しかし、「元気」であることはなぜか強制される。気むずかしい子どもや、繊細な子ども、たまたま不機嫌な子どもでさえも、「元気に絶叫」することが強制される。

何もないのにわざわざ「絶叫」したがる子どもはいない。日本の子どもたちのそれは、不自然な光景である、子どもたちも結局は教化されているのである。

これもまたサザエさん的なイデオロギーなのだろう。前にムーミンとサザエさんを比較したけど、サザエさんには孤独にこもりがちな内省的な人物は一切存在しない。だれもが笑顔で円卓を囲む。円卓の外の人間は、「ないもの」として扱われる。「ムーミン」では、スナフキンやおしゃまさんが、誕生日パーティであっても「独り飯」をしている。これも文化的な差か。

日本という国は、だいぶ均質化された世界で生きづらいように感じる。生きづらいムードは確かにある。いい加減に、無気力に、怠惰に生きられる社会の方がずっと望ましいように思われる。人間はそも怠惰な生き物だ。一日8時間も、勤勉に働くようにはできていない。しかしこの国はそれ以上を求めるのが常である。



私はさいきん会社という狭いコミュニティーにおいて周囲に打ち解け、認められたという感がある。これまでと比べると、冷たい個人の世界に落ち込むことがあまりなくなった。私は他者と調和しはじめたということであり、これはたいへんな変化である。私は不自然に歪められた人格から円熟した人格に変わりつつある気がする。これは、単純に加齢による変化なのかもしれない。特段、社会に対して拒否反応をしなくなっている。「そういうものだ」という感じで事象を受けいることができる。

長い苦しみの時代が四半世紀続いたわけで、それもいまの人格を獲得するためだったとすれば、まあ良いのかもしれない。私は鋭敏な神経を持っていた。それで、少しの刺激が苦痛でしかたなかった。いまでもその神経は、ひとよりも過敏だけど、「生きることに慣れた」というべきか、「そういう自分であることに慣れた」というべきか、ふつうより扱いの難しい楽器やバイクを、やっと使いこなせるようになったような感覚である。鬱病だとか、神経症だとか、そういう症状になるひとはたくさんいるけども、みなこういう「御しがたい自己」というものを持っているのだと思う。そして、それは決して悪いことではないように思われる。

まあこうした自己充足感も一時的なものなのかもしれない。この安定感は、ほとんどがSとの関わりで得られたものだと私は思う。しかしあたたかく、持続するようなものである。



旅用のバッグを買った。いつまで準備をしているのかという気もする。仕事中にパニック障害を起こしたのが5月、辞める決意を固めたのだが、ずるずると引き延ばしてしまった。

いまは仕事が楽だ。派遣社員が入ったので、仕事の負担が以前の半分くらいになった。だいたい8時間で帰れるし、給料は高いし、家賃手当が8割出るから、田舎暮らしさえ嫌でなければ恵まれた環境と言える。職場の雰囲気も悪くない。それで……。

まあ旅には出なければならない。中北米へ行くなら今がシーズンだ。ただ、冬であってもオーストラリアや南米に行けばよいという気もしている。Sが8月に仕事を辞めるというので、それまで待つのも良いかもしれない。

風のまにまに生きて行きたいと考えている。抱えきれない熱望を持つ年齢でもなくなった。畜生のように無意識的に生きて、気づいたら死んでいるという気がする。

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