6.19.2016

Sと寝る

昨日はSが家に泊まったので、夜の三時まで酒を飲んだ。それから一緒のベッドに寝た。私はひさしぶりの他人の肌の感触が嬉しくて、抱き寄せて、腕枕をした。ただそれ以上のことはしなかった。彼女もまた望んでいないことがわかった。彼女の身体に触れると、「ダメだ」と軽く諫められた。だから私は彼女の手の平を愛撫したり、髪をなでたりしていた。しかしそういった関係のあり方が、あんがい自然であるように思われた。キスをしたいというわけでなし、乳房に触れたいというわけでなし。そのやわらかな肌の感触で私は満足した。それは外人のハグに似たじゃれあいのようなものだった。

男女の仲だが、色恋ではない。こういうあり方も私は好ましいように思われる。色恋は関係の侵害を伴うからだ。性交は特に男の女に対する侵害である。これはどのような性交においてもそうである。性交は燃焼と崩壊である。友情は持続し、ほのかにあたたかい。どちらが良いというわけでもないが、どちらも必要なものだろう。

……あなたは、変わった。私があなたを変えた。以前のあなたはだれにも心を開かず、ロボットのようだった。いまはよく話すし、よく笑う。ひとりもいいけど、ひとりで居続けたら人生はあまりに退屈で惨めだ……というようなことを、冗談めいて言われる。たしかにそうなのかもしれない?孤独に生きようと心に決めている人間を、わざわざ呼び止めて、こころを開いてあげよう、と考える人間はそうはいない。そこはSに感謝している。

私はオルテガ・イ・ガセットのように、愚昧な群衆を率いるエリートが必要なのだと考えていた。苦難や不幸を「あえて」背負い込み、過酷な人生を耐え生き抜き、エリートよりもずっと多数で「幸福な」群衆を率いていく人物が必要なのだと考えていた。繊細な神経を持っていた私は、自分がこのエリートなのだと思っていた。私の神経はひどく敏感であるから、そのために人生でたいへんな苦痛を強いられた。その理由を、私はエリート/大衆の区別に求めていた。私の知性と勤勉によって、ひとびとを率いる必要があると考えていた。つまりヘーゲル的・ダーウィン的……つまりSocial Darwinismにおける神経鋭敏者(HSP)としての自己を、そのように認識していた。

ただ、いまは、無教養の人間に、たいへんな知性を感じるときがある。とくに女性において……。女性の知性については、あまりに記述されていなさすぎる。ゆえに本を読んでもしょうがない。Sのような人間が、私には謎であり、望ましいものであり、温かいものである。

一個の女性が、ここまでひとの価値観を変えるものか。いままでの孤独の軌跡はなんだったのだろう。私は、幸福になっているというふうに感じる。

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