6.23.2016

私は若くない

とくにどうということもなく過ごしている。図書館で「善の研究」と日本文化史論の本を読もうと思ったが数十ページでやめてしまった。

私は現在は満たされている。孤独で寡黙だった私は、職場で延々とSとおしゃべりをするようになった。女ひとりが私をここまで変えるものかはわからないのだが、偶然によるものか、Sの好意によるものか――私がともかく変わったことは事実であり、それは少しのとまどいを生むものである。

Sと花火の見学とか、バーベキューの予定を立てる一方で、自分が神経症者であることや、文学や哲学に憧れる鋭敏な青年(おっさん)であったことを、忘れつつある。いままでの孤独であった自分自身は何だったのか。女の手のあたたかさのなかで、私は堕落したのか――あるいは目覚めたのか。

世の中のおとこたちは、どのように自己と、女との関係に、折り合いをつけているのだろう。女、この不思議の生き物。男が理想を追い求める一方で、女は非局在化している。女はせわしなく男の面倒を見るものだ。男はまったく、女を軽視している。それでいながら、女から離れられない。

男はあくまで、女の手の内にある。そのことを感じる。私は、女にコントロールされていることに安楽を見いだす。女は私に指図をする。私はそのとおりにする。このとき一見、私が指示しているように見えるのだが、そうではない。それは一種の儀式的なふるまいだ。

女の手の内に転がされること。これがこんなに心地よいとは、思わなかった。私はただ、気ままに想像の世界を飛べばよい。ラピュータ人のように思案に耽り、夢うつつで良いのだ。私は酒に酔い、本に酔い、バイクで飛び、孤独を楽しむ。ときおり女が、杖で頭を叩いてくれる。女は、私の途方もない杞憂を着陸させ、なぐさめてくれる。お前の悩みなど、とるに足らぬものだと言ってくれる。

精神医学のある研究では、神経症者はほとんどすべて、性的関係において異常が見られるとされている。それは結局、女への軽視が原因なのだ。実際、Sのような、生娘のような、母親のような女こそ、理想的なアニマだ。

アニマとしての女に、私は初めて触れているという気がする。

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