6.26.2016

意味のない日々

日常における抑鬱はどこかへ行ってしまった。とくに不満がなく過ごしている。不満がなければ、何かを書こうという気にもならないものだ。満足した人間が叫び声をあげることはないものである。そういうわけで、ニュートラルな気分なので、私はただこの平穏を守るべく、過ごしていこうと思う。

平穏を守るといっても、なにもせず消極的に過ごすというわけではなく、人間は不断に行為をせずにはいられないのであるから、この連続した行為における統一的立場を維持するべく、努力するということである。本は読み続けるし、バイクには乗るし、旅行への準備を進めるけども、これらすべてが、私の平穏の維持に役立つというわけだ。

人は無意識に始まり意識を乗り越えまた無意識に戻る。音楽など芸術は無意識的でないと醜悪な代物になる。意識や理性に毒された絵画は赤子のそれに劣る。私の人生も極度に意識的であった。そのとき、無意識に生きるひとびとを畜群とののしった。ただそのなかには意識的段階を乗りこえたひともあるのであって、私はそれを知らなかった。
我々が或一芸に熟した時、即ち実在の統一を得た時はかえって無意識である、即ちこの自家の統一を知らない。しかし更に深く進まんとする時、已に得た所の者と衝突を起し、ここにまた意識的となる、意識はいつも此の如き衝突より生ずるのである。また精神のある処には必ず衝突のあることは、精神には理想を伴うことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している(かく我々の精神は衝突によりて現ずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理をふくんでいる)。(「善の研究」)
いまは「意識高い系」はバカにされるけども、そういう段階もひとには必要だと思う。反抗期とか中二病といったものが思春期の発育段階に必要なように、無意識を否定し理性を信奉する時期も必要だと思う。まあそれもいつか乗りこえられなければならない。

西田のいうように人生とは苦悶と平穏を単に揺れうごくものではない。それは統一を目指しているものである。このことはギーターの奥義と同様である、つまり「失敗と成功を同一のものと見よ」ということである。ひとはよく失敗を恐れ成功ばかり求めるがそれはこの統一を阻むものだろう。

私の人生もまた苦悶が訪れることは必定だと考える。例えばSがどこかへ行ってしまうか、私が仕事を辞めて旅立つか、いずれにせよ幸福は長続きしないのだと思う。不幸/幸福あるいは平穏/苦悶といった二項対立を、超越したいものである。そのためにはより理性的領域から、神秘的、超越的な領域にいかなければならないと思う。それは形而上学Metaphysica、つまり自然学の先へ行かなければならないということだと考えている。

1 件のコメント:

  1. 無意識の美を意識し始めたのは、三島由紀夫の金閣寺を読んだときです。
    人の忘れたモノの、佇まいを追うようになったのもその頃からです。
    自己と他者を同じように愛せるようになったら、人の苦悩も自分の苦悩のように苦しめるようになったら、そんな人間になりたいと思っているのに、全くもって自分の苦悩している事柄の浅さに嫌気がさす。
    s.k




    返信削除