6.28.2016

私は何もしていない

今日の仕事も楽だった。昼休み、Sのつくった弁当を食べた。職場のみな、仲が良い。Sが中心となって空気感を作っている。みな活き活きとして働いている。この女、なかなか希有な存在である。

食事は昨日買っておいたブロッコリーを茹でた。あとはポテトチップスを食べた。ビールと、チューハイ。

幸福であれば日常は光のように過ぎてゆく。不幸であれば一日々々が重苦しくのろまである。しかしわれわれは幸福を目指す。……われわれはさっさと死にたいのだろうか?それとも、幸福の最終形は死の苦しみの超越なのだろうか。人生を深く味わいたいとなれば、それは不幸になるしかない。

仕事終わり、本を読んだ。最近はルネ・ゲノンの本をよく読む。シモーヌ・ヴェイユが愛読していたということと、Kindleで百円で買えるからである。

そのなか、共感できる文章があった。
われわれが先に述べたように、あらゆる時代に、そしてあらゆる国において、完全な形而上学的認識に到達し得た人々がいたことを原理的に否定する理由は全くないからである。そしてそれは現在の西洋世界においてさえもなお可能であろう。この点に関してありうるかぎり不都合な環境を決定している心性の一般的傾向のために、疑いもなくそれはずっと困難なことではあろうが。
(……)そのような例外がもし存在したとしても、文書的な証拠は何も存在しておらず、彼らは一般的に知られているような痕跡を残していない。それは否定的な意味での証拠となるわけではないし、驚くべきことでもない。この種の事例が実際に生じていたとするならば、それは非常に特殊な諸状況―それらの本性に関してはここで詳説することはできない―のおかげでしかありえないからである。(「形而上学序説」)
例えばニーチェやカントが真理に近しいとわれわれは考える。あるいはアインシュタインだのドストエフスキーが真理に近い、またはマイスター・エックハルトや空海が真理に近いとわれわれは考える。

のだが、そうした「著名」なひとびと、記述し、記述されたひとびとが真理に近いということに、どういう根拠があるのだろうか。それはただのロゴス主義ではないのか。

ほんとうの智慧を身につけた人が、何か記述しようと企むのだろうか。哲学書、科学論文……ほんとうの智慧を身につけた人は、なにか記述しようとするのだろうか。記述、それは不幸への抵抗であり、叫び声である。ロゴスとは常にある陰惨さを持つ。なにか高度の智慧を身につけた人が、苦しい、やるせない、と嘆くだろうか。ほんとうの真理を得たひとは、われわれの目にとまる前にすでにして死に、「解脱」なりなんなりしているのではないか。

そういう感情がある。

だから、著名人のことを私は二流だと考える。ニーチェもいい線をいったけど、届かなかった人なのかもしれない。キリストも、ムハンマドも二流なのではないかな。私はもっと、真理に近づきたい。

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