7.03.2016

女とともに

Sが私を毎日のように遊びに誘ってくるので、相手をしている。「好きな人とは、毎日でも一緒にいたい」と言うのだ。それなので、あまり本を読む時間がないし、何かを書く気にもなれない。

別に付き合っているわけではないのだが、キスくらいはしている。中学生のような表現だが、「B」程度の関係。私はしばらくしたら旅立つ予定なので、恋人になる気はない。Sもあと数ヶ月で仕事を辞めて都会へ行くというから、同じ気持ちなのだろう。

それにしても、「私にはあなたが必要だし、あなたには私が必要だ」とSが言うとき、それは妥当な表現だと思われる。Sはたぐいまれなほど社交的であり、だれとでも親密になれる性質を持っているが、その反面ひどく臆病であり、人見知りであり、そのような姿を私には見せている。

私もまた人見知りだが、社交の才能がないために、ほとんど人間と関わることがなかった。だから私はSの付随物として、社交の世界を知ることができた。

「幻の桜」を読んでいると、頭部のかたちによって人間を二種類に分類していた。
後頭部ぼっこりの人は おくおくおくおく 奥の奥を見る
おでこぼっこりの人は まえまえまえ 前の前を見る 
未来を見るのが得意な人は まえまえまえ 前の前を見る人の方
過去を見るのが得意な人は おくおくおく 奥の奥を見る人
形がそれを現してる(「ふりふりしゃわしゃわ」)
私は「後頭部ぼっこり」であり、Sは「おでこぼっこり」であるように思う。これは実際の頭の形状でもわかるのだが。だから未来を見る人間と、過去を見る人間とで、私とSとの関係は、うまく行っているのだと思う。反発せずに調和している。陰と陽が引きつけ合うのは当然とも言える。

私はSを信頼している。恋愛感情とはまた違うと思うが。


女とともに在ることに安心を覚えるようになったから、私は哲学者には向いていないのだと思う。他者とある程度の和合ができれば、哲学はほとんど必要ないからである。哲学とは記述と論理によってつみあげられた領域であるけども、それは論理と記述以外の領域を不当に削減していることを意味する。

ある定義づけは、定義外のものを排する。われわれがコップを手に取れと言われたときに、われわれの精神は、本来「一」である世界から、「コップ」と「それ以外」を切り離してしまう。そうしてコップを手に取ることができるのだし、またそうでなければコップを手に取ることはできないのである。われわれはコップを手に取ることができる。また、コップを定義することができる。ただ、このような意識のはたらきは、「一」としての世界を否定することになる。コップに意識がいくということは、「コップ以外」を忘却することだからである。

それではコップ以外の世界を認識するためにはどうすればよいのか。どのようにコップは世界に溶け込むのか。たとえば熟練した音楽家はピアノの鍵盤を意識しない。また頭のなかに譜面が浮かぶわけでもない。このような忘我のときに、彼は「一」の世界に在るのだと思う。

芸術家の哲学と言ったものがあるだろうか?論理や記述で積み上げられたものが必要だろうか?実際のところ、熟練した芸術家は、ただ在るだけなのである。そうしてこのような領域は、永遠に記述が不可能なのである。

そういったことから、記述されたもの、組み上げられた論理と言ったものを、私は最近は軽蔑している。たぶんこれはプラトニズムの否定になると思う。

……と上のように書いてきたがこれは単なる実存主義哲学なのかもしれない。

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