7.10.2016

私の前には何もない

たいして何も書かずに日々を過ごしてしまった。書くことにあまり価値が見いだせないせいもある。Sとの遊びが忙しいし、今週はとくに仕事が過酷だったこともある。来週からはまた閑散になるから、楽になるだろうと思う。

Sと遊ぶときに、必ず私が奢っている。給料にして、だいたいSの3倍以上を私は貰っているからだ。それでも、一回の食事で6000円以上することもあるから、けっこうな出費である。Sは、奢られるのがうまい。奢られるときは、それを当然のように思わなければならない。いちいち、「今回は私が」などと言われると興ざめする。財布を出すそぶりは、ビジネスマナーではあるけども、親密な関係であれば要らない。

私は世間で言うところの高所得者であるらしい。20代で私は、信じられないくらい貰っているということである。ことに「よくて年収300万円」のこの田舎では、私ほど金を貰う人間は、上位1%もいないとのことである。私は分不相応に貰っていると言えるし、海外旅行用の資金は貯まったから、もう金はいらないのである。

もともと、だれかに金を与えようと思っていた。それは大げさに言えば、喜捨の精神であった。私は金にそんなに執着がない。また、執着を持ちたくない。それに、私は自分が金を活用することはないと思うから、金の足りない若い人間にあげたら喜ばれるだろうと考えた。

はじめは、新宿に住んでいる、二十二、三の若い女にあげようと思っていた。彼女はつねに金に困っていたからだ。一日8時間働き、そこからバイトしていた。彼女はつねに過労気味だった。そうして、経営者にもだいぶ騙されているような気があった。彼女とは、おおまかに言ってしまえばセックスフレンドのような関係であった。というか、セックスもする女友達と言うべきか。

それで、一年くらい疎遠だったから、久しぶりに連絡した。私は、就職を期に金が余ると思う。お前の何倍かは貰うと思う。それだから、お前に金銭的な援助をしようと思う。そうして初めに、10万円くらいをポンと与えてやるつもりだった。突飛な話だが、本当にこう言うつもりだったのである。だが、連絡したところ、「私には彼氏がいるから、もう連絡するな」と言われた。これは存外、ショックであった。彼女以上の適任は、あまりいないからである(マア彼氏がいるということも少しショックだった)。私の知っている限り、女で生活に困窮しているひとはそういない。男に金をあげたところで感謝されるより恨まれるか利用されるだけのような気がするし。

いま考えてみると、私はその女との接点をもつことで、都会の中心との関係を保ちたかったのかもしれないと思う。新宿にある人間と、接点を持てば、離れゆく都会との接点を保つことができる。ただまあ、10万円あげたところでどうなのか、と言う気もしてくるが。

ともあれ……話が長くなったが、金を捨て去る、誰かに与える、という機会が私には必要だったのであり、その対象としてSは適していると思われる。

その新宿の若い女も、Sも、少し似ている。対人関係における、ウマさである。すぐに集団に溶け込み、集団を内側からコントロールする。こういう人間がひとりいると、集団は円滑に機能するようだ。ある意味、巫女のような存在と言えるかもしれない。こういう人間に、私は興味をひかれる。だいたいこういう人は共通点がある。性的に奔放である、暗い中高生時代を過ごした、高い感受性を持ち音楽などに興味・こだわりを持つ、少し他者依存的だが、独自の価値観を持っている。

私はあいかわらず、学生時代の習慣で、節約をしている。だいたい食費は一日千円以下に抑えるよう、努力している。ひとりで外食などはしない。そんな私であるが、Sに対しては放埓に金を遣う。

私は少し、金持ちの気持ちがわかるという気がする。世の中の金持ちは、おそらく自分が金を持っていることに、嫌な気分を持っているはずである。私が持たず、彼が持つというのは当然苦しいが、私が持ち、彼が持たないということもまた苦しいものである。前者は不平等として訴えることができるが、後者はなんとなく主張しにくいものである。財産をぽんとあげてしまうわけにはいかないのだ。イギリスなど貴族社会ではノブレスオブリージュといううまい倫理的な開放弁があった。仏教やイスラムでは喜捨。金は不思議なものであり貯めこむと富と一緒に毒も蓄積するようなのである。それだから適度に分け与え、循環させなければいけないようだ。

今日はまたバイクで出かけようと思う。

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