7.14.2016

インディーズ

私は何もしていない。

ろくに読書もせず書くという気もおきない。人間老いてくると新しいことに興味がなくなってくるのかもしれない。資本主義や自由主義においては若さに価値がおかれている。みな若々しく見えることに躍起になっている。かつては死にゆく老人が神であった。死に近づくということは神に近づくということであった。それで現今では子どもが神になっている。人は次第に神になるのではなくなった。人ははじめ神であり、しだいに人間になるのである。そういうことが「宗教以前」に書いてあった。

二十代も後半になると人格が固定化されてくる。ようやく私は私であるという実感を得たのであり、これは神経症に苦しめられた私にとっては治癒ともいえる。

ここ数ヶ月、読書から得られるエポックな事件がない。少し前は東洋思想と西洋思想の違いに感銘を受けて、宗教や歴史に興味を抱いた。つぎにはサイコパスという存在を認識し、それを熱意をもって調べた。ひさしぶりに論文など調べたものである。ただわかることは科学には限界があるということだった。

ひとの「精神」を知ろうというとき、科学はだいたい無力であり、心理学や精神医学の雑多で曖昧な蓄積はあるけれど、まるで真相に到達できそうなものはない。それよりも神話などの方にかえって私は可能性を感じるのであり、サイコパスがかつて存在したのであれば、それがどのように神話や伝記に示されているかを知ろうとした。

科学に失望したのはその一件がほとんどはじめてだったのだけど、それがあってから科学の「進歩」思想そのものを、否定したい気持ちになった。人間がいったん「進歩」を否定しはじめるとけっこう大変なのである。というのも古代ギリシャに始まる「知」そのものを否定しなければならないし、これまで学んできた学問のたいていを、一端疑わなければならないし、それに科学への信奉がなくなると、この世界はいったい何なのか、という問題に再度肉薄しなければならないのである。

それでたとえば世の中には聖書をありがたがる人があれば、ヘーゲルをありがたがる人がいて、ことに日本の哲学者はヘーゲル研究がたいへん盛んであり、そのわりにたいした実績もないように思うのだが、私もニーチェにはだいぶ没頭したけれども、そういう「歴史」における人物、歴史上に固有名詞としてあがる人物、歴史体系のなかに点として存在する人物に、私は疑念を抱くようになった。それらはつねに恣意的に選択され、歪曲されているような気がした。

それで私はもっと無名で無能とされた人物に興味を持つようになった。ある対象の外側、点以外に目を向けようと思ったのである。たとえば私の職場にいる無名のひとびとなどをつぶさに観察しているのが現在というわけで、私の最近の興味は読書を外れて、Sとの交遊などに向けられている。これが怠惰といえばそうなのだろうが、何事からも学ぶべきだろう。紙とインクが与える智慧、女の声と肌が与える智慧、いったいどちらが優れているのだろうか。

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