7.20.2016

沈み、破裂する

我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。(「善の研究」)
昨日で「善の研究」を読み終えたがとくに大きな発見はなかった。はいはいそうだよねといった具合だ。

知識はふつう分岐し広がっていくように思われている。たとえば炭素や水素などの元素をただ知っているだけの者が、電子陽子など原子の構造物を知り、さらに複雑な高分子化合物を知るとすれば、それは広がってゆくといえると思う。ただ知識を幾層もつみかさねていくと、ある段階で、いろんな知識が統合され、ついには「一」に到達することがある。これは転倒に近い感覚だ。なにかを事細かに調べていたのに、すべてが融合してしまうのだから。言ってしまえばそれは、経験から演繹への大逆転である。

ある定義以前、言語以前、したがって未分化の智慧の存在を、いつかは知ることになる。この存在が神だったり永遠だったりオーム、一円、光あるいは無であったりするのだが、ともあれわれわれの「知識」は、いちど限りなく膨張し、つぎにはしぼんでしまい、普遍化してしまうものらしい。いろんな言語を学ぶこと、ビジネスのコツを学体得すること、音楽のスケールを練習すること、なんでもよいのだが、だんだんに知をつきつめてゆくと一極点にたどり着く。

そういうわけだから、私は2012年の12月に「善の研究」を読もうと努力して、けっきょく失敗したのだが、いまとなっては容易に読むことができ、ことさらに自明なことを叙述する西田は少し変人なのだなと思うくらいになった。いろいろ興味本位に読書した結果、「善の研究」の訴えることはすでに当然の智慧になったのである。

もちろん西田もいろんな考えがあって書いたに違いない、私のような泡沫人間よりはるかに智慧も徳も高いはずであるし、幼児書を書く人間の知能が幼児並でないことくらい私も知っている。

それで私はもっと深い智慧を得たいと思った。今は愛について。

知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。(……)愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。(同書)
ナルチスとゴルトムント――。そういうわけで、読みにくくなったけど、酔っぱらっているのでしめくくることにする。知は苦しみであるならば、愛も苦しみなはずである。そうして世の中には、苦しむことが宿命づけられている人間が存在する。

いまは、医学の歴史を調べている。医学の歴史と言っても、西洋医学の歴史である。医学とは、ふしぎな学問である。医学なくして科学はあっただろうか?合成繊維の衣料と感染症のワクチン、どちらが大切だったか?科学の両輪は、哲学と医学であるような気がしている。私はもちろん、科学に根本的な反感を抱いているのだけど。

1 件のコメント:

  1. 今日初めてブログを拝見させていただきました。とても面白いです。

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