7.25.2016

書くこと

最近の私が書くことはまるでバカのようだし、だれもこんなものを求めていないと思う。私自身でさえ自分の書いたものに対して愛着わかず無頓着だ。それでこのようなことに意味があるのかと考えている。

科学は言説である。文学もまたそうである。哲学も同様である。言説自体を乗りこえようという考え方をしているのは、せいぜい宗教と形而上学くらいである。それ以外は、「書かれたもの」に信頼を置いている。ある基盤を保っている。それで宗教と形而上学はその基盤を問い直す能力、あるいは目的を持っている。もっとも、キリスト教はこの例外かもしれない。始めに「ロゴス」があったのだから。

書くことで何かに到達できるのだろうか。書くこと、それは初めから孤独への拒絶を意志している。書くこと、その満足に浸ってよいのか。書くことによって失われるものがある。日本人は観光地でもカメラを離さず、生きた眼で鑑賞しようとしない、とよく外国人に揶揄されていた(もっとも、いまは外国人の方が「自撮り棒」でカメラに熱中しているようにも感じるのだが)。書かれたもの、書くもの、それらに価値はあるのだろうか。書くこと、それは営利のひとつではある。金は稼げるだろうし、名も広まるだろうと思う。それで書くことは、いったい誠実なのだろうか。真実への道なのだろうか。また、それは偉大なのだろうか。正直なのだろうか。

と考えて、言説に対する態度を、neutralizeしてみた。書かれたものを読み続けることは、写真を見続けることと同じようなことかもしれない。生はもっと広く開かれているのかもしれない。「記述されず、記述しない世界」というのが、もっと広くあるのかもしれない。われわれが無意識とか、狂気とか、愚鈍とか思う世界のうちに。泥と汗と吐息の領域に。世界はもっと広いのかもしれない。と考えると、すこし興奮してきた。



旅の準備は、荷物ということに関してはほとんど準備が整った。たいていのことは金でなんとかなるものだ。ジャケットに1万円、バッグに2万円……金は飛ぶけど、これらの道具を身につけると、時代の進歩を感じる。あとはビザや国際免許をとれば出発できる。もう、どうとでもなるという安心感がある。世界は、そこまで変わらないはずだからである。そういうわけで、今度の旅は失望をはじめから抱いて出発することになると思う。私も成熟したということである。

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