7.31.2016

冷たさの欠如

Sのことはやはり好きだと思う。結婚してしまってもうまく行くのではないかと思っている。もっとも結婚する気はあまりない。合わないところもある。彼女は犬が好きだが、私は猫が好きだ。彼女は肉が好きだが、私は野菜が好きだ。彼女は都会が好きだが、私は田舎が好きだ。彼女はテレビが好きだが、私は読書が好きだ。彼女は友達が多いが、私にはいない。彼女はロックが好きで、私はジャズやクラシックが好き。もちろん、これらの相違以上に似通っているところがあり、だから仲良くしているのだが。

今日もSは夕方から私の家で過ごした。私はSに料理をふるまった。つぎに私はSの首筋にキスをする。ここのところ、毎日Sは私の家にきている。それで実際にSは今後も、「毎日私の家にくる」と言っている。ありがたいのか、迷惑なのかわからない。私は孤独を恃みにして生きてきたから。

アンソニー・ストーは「孤独は天才の学校である」と言った。天才は孤独であっても、孤独者が天才とは限らないとは思う。でもまあ私は生涯孤独だろうと思って生きてきたのである。それはだいたい偉大な哲学者とか宗教家と同じ道であった。その道から私はHead over heelsに落下した。そのことの意味は結局私が凡夫であることを意味するのかもしれない。

いやそれにしても、Sという女は不思議な女だと思う。全体女というのは不思議なものだけど、Sはその不思議を全面に出してくるから、否が応でも向き合わなければならない。私には、「平均」とか「普通」、「正常」とかいう意味がいまいちわからない。それがどのように定式化されるのか。私がだいいちに苦悶したのも自分の苦悩が「普通」ではないことだった。それは神経症の苦しみだった。「病的」「異常」とされる苦しみだった。生きることは苦悩だった。

もっとも生きることは苦しみである。そうして男女関係というのも、生きる上で極めて重要な要素である。私は苦しむことにおいて異常者であったし、男女関係においても異常者なのかもしれない、と思う。異常者というとすこしキツイ言葉のようだけど、平均人とか凡人もまたけっこうな侮蔑語だ。「私はふつうではない」ということに、とても苦しい時期があったし、それが救いになることもある思う。

それで、私はふつうではないということに少し自信を持ちつつある。そうなったのは、Sという共鳴者があるからである。彼女ほど私の心に深く入ったものはいない。
私は著作を通して、ときおり若い読者たちが混乱状態に陥るところまで、つまり彼らがたった一人で、よりどころとなる慣習なしに人生の謎と対決するに至るまで力を貸しました。そのほとんどの人にとって、そのことはすでに危険なことです。そして、それゆえに、ほとんどの人々がその状態を回避して、新しい精神的支柱となる人間関係やよりどころとなる人々を捜し求めます。無秩序の中に踏み込んで私たちの時代の地獄を意識して体験する精神力をもつひじょうに少数の人々は、「指導者」なしに自力でそれをやりとげます。(ヘルマン・ヘッセ)
私も「ほとんどの人々」だったかな?そうして精神力に欠けているのかもしれない。

Sは私を抱擁し、私の鎖骨に口づけをする。Sがいなくなったら、どうなるだろうか。Sはドライな女だし、それでいて女としての魅力はしっかりとあるから、結婚に困るということはないだろう。私も孤独の生活には慣れているから、困ることもないのである。だからまあ、離れて生きていくとしても、悪いことはないのだと思う。執着だけはしたくないと私は考えている。


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