7.23.2016

非局在者

しょうもない生禅だった。

日本人がしだいに貧しくなってゆく一方で私の富は蓄積している。それで私はポルシェが欲しいと思った。自分の会社が欲しいと思った。日本人の9割が買うような粗末な家ではなく、しっかりとした家が欲しいと思った。それとよく気がつく嫁も欲しいと思った。それと自由になる時間も欲しいと思った。

家を買えば家に固定される。ポルシェを買えばポルシェにしばられる。よく持つ人は物に持たれる。それだから何も買わず何も身につけず放浪するという生活にも私は憧れる。砂埃にまみれ肉体ひとつで悟りを得る道もある。

私には二通りの人生があるのであってこれは難しいテーマだ。しかしこの煩悶はとても普遍的なものである。「二つの魂が、ああ、わしの胸に宿っている。その一つが他の一つから離れようとする。一つははげしい愛欲をもってからみつく道具で、現世にしがみついている。も一つは、むりやりちりをのがれて高い霊どもの世界にのぼろうとしている。」というようなファウストの一節がある(高橋健二訳)。現世的な理想を追うのか霊的な理想を追うのか。

俗人は現世的な利益を追う。ほとんどの学者や聖職者も同様だ。それで霊的な理想を追うのは少数のエリートである。ただこのエリート主義も厄介なものだ。エリートであるから正しいわけではないと私は思っている。

世間的成功をおさめていても幸福でない人はいる。霊的に満ちていても現世には惹かれるものである。例えば何十年も禁欲に励んだ修行僧が、若い女の肌に触れた一瞬に、すべて瓦解するということがある。結局のところパスカルの言ったように、ひとはこのあいだを揺れ動くものでしかないのかもしれない。ひとにただひとつ理性や主体があるのではない。人間は不断にゆれうごく中間者、非局在者であるという考え方がいちばん正当であるように思われる。

それだから結局のところ、未分化の状態に戻ることが大事なのだと思う。現世的な利益と、霊的な利益があるのではない。この二項対立をいったん棄却する。われわれはただ在るのであって、それ以上ではない。だから禁欲的生活の末に女の肌に目覚めたところで、自分の不貞を責める必要はないのだと思う。性的快楽もまた真理に近づく術であるかもしれない。密教など秘密主義の宗教ではひたすら快楽をむさぼる修行もある。ただ心のうちの従うままに生きるのがもっとも優れていると私は思う。やはり私はルソーの言っていることが好きだと思う。

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