7.18.2016

Sについて

Sの過去を知ることはおもしろいことだと思った。

並の女ではないようで今の仕事に就くまでは東京の繁華街ではたらき中年男性を虜にしていたらしい。働いていたのは夜の店であるがガールズバーやキャバクラのような風俗店ではなくアルコールを提供するバーや居酒屋であったようだ。それで実業家だの商社マンなどに大いに好かれたようで直接金品を受けとることはなかったにせよ食事だの酒だけで数百万円を貢がせた。社会的に成功していても人生がうまくいっていない男性は予想以上に多いというのがSの談である。

それで今Sが住んでいるのはほんとうにさびれた田舎である。小学校の全校生徒は一桁しかいなかったらしい。山と海くらいしかなく、したがって農業や漁業くらいしか産業のない地域で都会の友人など招くとこんなところに人間が住めるのかと言われるそうだ。こうした環境においてSのような人間が育つということは不思議なことだ。

現在のSの人格の謎を解く鍵に兄の存在がある。小学生の頃、Sと兄がいっしょに通学しているとき、兄が車に轢かれた。「ありえない量の出血」を見てSは兄が死んだと思った。そうして怖くなって逃げ出した。車の運転主が救急車を呼んだ。田舎では常にそうだが救急車の到着が遅く兄は脳に障害を負ったらしい。それでS曰く兄は20代後半だが知能は小学生のときのままで停まっているということだ。またひどい癲癇発作の後遺症を負ったために意識喪失する全身発作もあればじっと黙って一点を見つめたままのときもあるようだ。

Sはほとんど他者との意思疎通の難しい兄を見て育った。それで兄を観察しある程度の感情を察する能力を知った。たとえば物言わぬ兄が何を欲し何を望まぬかということについて、「解読して」知る術を得た。この観察眼は一種のテレパシーに近いものだと思う。脳障害の兄で機微を知ることができるのだから、健常者などの感情は簡単に知ることができるらしい。たとえば私が押し黙ってなにか考え事をしているとそれを当ててしまう。また私がなにか不満に思っていることがあると、知らぬ間にそれを解決してしまう。Sの何者かを知らない人はほんとうにぎょっとするのではないかと思う。

そういった霊感に近い感覚をSは持っている。女の直感や嗅覚といったものをずっと鋭くしたような感じだ。私が知る限りここまで感情を察知する能力がある女性はいなかった。それだから私はつねづねSに驚嘆し感心してしまう。

また、私が固く心を閉ざしていたのを、強引にこじ開けたのも彼女であった。それで私の対人恐怖的な、神経症的な部分がだいぶ改善された。Sに頭があがらないのは、私をある意味で「治療」したからである。なぜ彼女が私に興味を持ったかはわからない。「なんとなくおもしろそうだった」と彼女は言うが、たしかに何年間も孤独にこころを閉ざして過ごしていた人間は、興味深いものだと思う。「治療」はだれにでもできる仕事ではないから、都心の実業家連中がSを寵愛したというのも理解できる話である。

Sとは、現在も不思議な関係が続いている。恋人ではないが、恋人に近いような関係だ。昨日も数時間ドライブしたあと、自宅で食事をし、そのあと抱擁した。恋人になってしまっても良いのかもしれないと思うことがある。あいまいな関係をSも望んではいないようだ。ただ私はまだ自分にそこまでの自信がない。また数年間旅に出るのだから、Sもそのあいだ待っているわけにはいかないだろう。こればかりは心苦しいけど、しようがないことのように思う。


1 件のコメント:

  1. しようがないことはない。旅に出る前に、彼女に素直な気持ちを話すべきだと思う。それから先は、なるようになるだろう。彼女がどうするかは、彼女が考えること。

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