8.10.2016

職場のジコアイさん2

最近はひさしぶりに憂鬱の気分を味わっている。それで多少知性を取り戻すことができている。職場の雰囲気が悪く、その原因はわかっている。他人に負の影響しか与えないような類の人間は存在する。その人間は、自己愛性人格障害なのだと私はにらんでいる。

その若い女は、「私はがんばっているのに、なぜ認められないのか」という感情が、表に出ている。たしかにがんばっているのだろう、サービス残業を何時間もして、一見仕事熱心だ。だがその動機はつねに「褒めてもらいたい」という承認欲求である。仕事が好きなわけではないし、理解しようとはしていない。そうであるから、ときにありえないような業務上の暴走をする。また、「がんばらない」他人を容赦なく攻撃・密告する(私のような)。そうして業務上の注意をされれば、自分の人格が全否定されたかのように反駁する。「私はこんなにがんばっているのに、なぜ注意するのか」と、ときに大泣きして注意を引く。

私はこれを発作的なものとして見ない。会社は、他人に褒めてもらうところではない。労働の対価に金銭を受け取る場だ。この人は、子どものまま人格の成長が止まってしまったのではないかと思う。まるで「見て、自転車が乗れるようになったよ」と母親にせがむ子どものようなのである(私も5歳くらいのときはそうだった……)。

はじめはこのような人間をなんとかコントロールするよう努力したが、最近は放棄することにした。子どもは勝手に学び勝手に成長するが、子どものままの大人は成長することがあるのか不鮮明だ。私が親の代わりに教育するのもめんどうだ。

そういうわけなので私にしてはめずらしく、攻撃的手段を取ることにした。攻撃的というより、ほとんどは逃避的なのだが。無視をする、口を利かない、目を合わさないなど。このような行為は、私としてもしたくないのだが、職場という「離れられない状況」にある以上、精神衛生上そうせざるを得ない。

この人間は、自分の内面を見つめることを悉く拒絶しているのだと思われる。そのため自分のふるまいが正しいのか、正しくないのか自分の価値観によって判断することが不可能である。だから他者の「承認」を求める。権威的であればなおよい。「○○さんが私を褒めていた」ということで、自分を慰めて生きていくのである。このような人間を私は不幸だと思うが、それだからとどうすることもできない。ただ、私があえて褒め称えて彼女を操縦するよりも、つらくあたった方が彼女にとっては薬になるという気はしている。

そういうわけで仕事中に余計なストレスを抱えて若干の抑鬱気味だ。そのせいかSとの関係もうまくいっていない。いったん悪くなった関係を、どうすればよいのか、私にはわからない。夢を見た。Sは私から離れた。「うんざり」とか、「失望」というような顔をしていた。彼女は怒りと困惑で泣いていた。それで、私は新しい女を得た。それは精彩を欠いた、つまらない女だった。

一度失望した男に、女は二度と想いを寄せることはないのだとよく言われる。まあ、私はあらゆるところに定住できない人間なのかもしれない。とりあえず旅に出ることにはなっているから、そこでいろいろ考え事をすればよいのかもしれない……。時間が必要だ。

ここしばらく、旅への欲求も筆記への欲求もあまりなくなっていた。書くこと書かれたこと、どこかへ行くことに何かあまり興味がわかなかった。それでも何か書くとこころが整理される気持ちになる。最近の精神不安定もこの日記療法の中断に依るのかもしれない。

読書は漫然と続けているが渡辺京二のコレクションがおもしろい。このひとは事物を斜めから捉える力がすごい。政治思想家としての岡倉天心に着目するとは。
「彼ら(西洋人)の社会協力の方法でさえもが、露骨な私欲が共通の餌食のために結びつき血にまみれた不信が戦利品の配分を監視していた太古の狩猟と戦争を憶い出させる。彼らの徳は独立独行と友愛を育てはしても思いやりと同胞愛を育てず、彼らの型は画一を育てはしても調和を育てず、彼らの権力は支配を育てはしても統治をそだてなかった。……東洋の社会はたがいに関連し合った義務の調和がまことに美しい。土地は仕事を、仕事は共同社会の理想をあたえ、その共同社会では各成員が完全な全一体をかたちづくっている」(天心)
西洋精神が狩猟⇒戦争の「掠奪」志向を根底にもっていることは一般的に知られていることである。

私は思うのだけどやはり肉食文化と草食文化は相容れないのではないかと思う。

哺乳類という人間に近い動物、人間とある程度コミュニケーションをとれる、同系統の感情を持つ草食動物などを食す理由はないのだと思われる。肉食者は、何も考えずに肉を食べるときに、潜在的に罪悪感を抱いているはずである。だから「動物は機械なのだ」「動物は神が人間に与えた道具なのだ」という考えが生まれてくる。その延長が人種差別や植民地化につながっていくのではないか。

私は鶏肉を食べるし魚も食べる、それらは人間に近くないからだ。食べることに罪悪感をあまり感じない。それで牛肉や豚肉の切り身を前にすると、こんなものは食べられない、と感じる。エゴでも偽善でもなく、感覚的な問題だ。私は魚をさばくことに罪悪感を抱くことはない。鳥を殺すことも、さほど気にならないだろうと思う。でも豚や牛が殺されたあとの肉塊を目にして、おいしそうだとか、そういう感情にはならない。

人間が哺乳類を食すということは、すこし不自然であると思われる。まあ、たまに食べることはあるけど。

1 件のコメント:

  1.  愛されたい、認められたいと考えることもそうですが、仕事をしていない人を密告するとか、自分が叱られていると泣くこともあるというのは、結局自己保身から来る感情のように感じます。
     つまり、もし会社の経営が怪しくなったら、クビになるべきは私ではなく他のもっと頑張っていない誰かだと、その人は言っている訳です。実際に仕事の出来ない人やもし、今の仕事がなくなったらどうしようという不安感の強い人にそういう傾向があり、その人は人に誉められたい訳ではなく、いたって自己中心的な損得勘定で動いていると考えられます。
     自己愛が強い人とは、本当のありのままの自分を愛せない人な訳ですから、周りとしては距離を取らざるをえません。何を言っても信頼や愛情とはかけはなれた人間関係になるからです。その人が、他の人の立場に立って、恥をかいたり、手伝ってあげられるような器の大きさを持てれば、現状は打開できるかもしれませんが、まず無理でしょう。

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