8.18.2016

十分生きたおじさん

と昨日書いてみたがSは単に私との関係を断ちたいのかもしれないと思った。Sは今週で仕事を辞め、都市の学校へ行く。時機としてはちょうどいい。

まあそれで良いのかもしれない。私がSから得たものはたくさんあるのだし、一時はSと結婚しても良いという考えもあったが、私はまだ何も為していないのであるし、私にももう少し孤独の時間が必要であるから、この際Sとの関係をなしにしてしまうのでもよいと考える。

当然ながら、それは離別の苦しみを孕んでいる。Sが他の男を抱くということがあれば、嫉妬心のようなものが湧いてくる。しかし私はもう、何物にも執着しないのであるし、私はSの精神性を評価しており、精神的に通ずるところがあり、離れていったとしても、ユングの集合無意識的には連帯しているのである、だからそれでよいのだろう。成熟した人間は親や兄弟と必要以上に関わらないものである、それは別段離れていても関係性が持続するからである。Sとの関係も、それに近いものがある。

Sは最初から最後まで医師のようであり、功利的な医師はさっさと患者を治さないものだが(食い扶持がなくなるから)、Sは熟練した腕で劇的に私を治療し、私を立ち上がらせ、世界と向き合えるよう整えてくれた。私は独立して、医者も母親も教師も、必要なくなったというところか。Sによって、私は他者と和合することを知った。他者と涙を流すことを知った。他者と持続的な関係を築くことを知った。いたわりと、注意深さを知った。他人のこころに干渉することを知った。私に欠けていたものだ。ひとはいずれも、人生のある段階でこういった事柄を知るのだろう。私はとても遅くに、これらのことを知った。

いずれにせよ私は何年か単独で行動しなければならない。だから恋人のような存在は障害になる。年内に出発できれば、そうする。それはどうしても必要なことだという気がする。私は、その旅の途中で自分が死ぬのではないかとなんとなく思っている。これは単なる予感であって、たぶん旅を終えたあとの生活がまったく予測できないから死のイメージが沸くのだろう。まあ人間、そう簡単に死ぬことはない。死ぬにしても、生きのびるにしても、私はもう十分生きたという実感がある。27歳とは、そういう年だ。もう十分だ、と考えてしまう。



私は自分が回避性パーソナリティーであることを知った。それは自分をゲイだと受容したおっさんのように、世界がぐるんと変わる感覚だった(私はゲイではないが)。私は自分のメンタリティを肯定的に捉えていた。孤独でいられるということは、ひとつの特権的な能力なのではないかと思っていた。

しかし最近は「性格」というものに、疑問を抱くようになった。ある精神分析医は、「良い家庭はそれぞれ似通っているが、悪い家庭は種々様々で個性的だ」と言っていた。個性とはそも、悪癖のことではないのか。考えてみるに、よく言われる「人格障害」のようなひとびとは、その本質として悪に捕らわれている人なのかもしれない。プラトニズムは嫌いだけど、ある理想としての善があり、人間はみな知性によってそこへ辿りつくべきなのかもしれない。


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