8.22.2016

依存の回路

仮に注意を張り詰めて、むさぼるようにしてすべてを観察したところで、所詮自分の鼻先で起こっていることでさえ、多くを見逃すことだろう(「死の家の記録」ドストエフスキー)
アルコール中毒にせよ、神経症にせよ、根底にあるのはある個人の未熟さと、目を閉じたがる傾向にあるのだと思われる。

ひとは幸福を求めるという人があるけれども、私は精確には、ひとはだれでも生長を求めるものではないかと思っている。生長、それはニーチェの「力への意志」そのものである。つまり「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめようとする努力」のことである。そうしてこれは、意志であると同時に、生命そのものであるとも言える。

神経症者は、ひとつの回路を形成する。ネズミの回し車のようなもので、いくらその回路のなかをぐるぐる回っていても、一歩も進めない。動いたような気がするが、徒労でしかない。何にもならない活動に疲労し、「私はまじめにこなした」と自分を慰める。私はようやくわかったのだが、神経症とは、ひとつの依存症である。アルコール中毒は酒に依存するのだが、酒の常習性が認められるにせよ、結局のところ、内面の未熟によって依存するのである。神経症は、行為に依存すると言える。

例えば医療麻薬としてのモルヒネは、疼痛緩和としての使用であれば、依存性は医学的には認められない。これを未熟な人間に与えると、即座に依存症を起こす。同様のことが酒にも言える。社会生活を送っていれば飲酒する機会は何度も訪れるが、だれもがアルコール中毒になるわけではない。毎日酒を飲み、徐々に酒量を増やし、最後に破滅するのは、依存傾向の人間である。

だから酒が悪いのではなく、問題は自分にあると認めなければならない。

神経症は行為に依存する。行為というか、回路である。赤面恐怖症は、とうぜん赤面することが問題なのではない。「赤面した→恥ずかしい、どうしたら赤面しないのか→赤面しないよう努力してみよう→それでも、赤面した」そうして最初に戻る。この回路のなかを神経症者はぐるぐると回る。森田療法ではこれを「とらわれ」と言うのだが、私はこの回路に依存する傾向は、受動態で表現すべきではないように思われる。この類の回路はだれでも経験することがあるけれども、アルコール同様、だれしもこれに「依存」することはない。神経症者は深層心理的にこの回路を求めている。だからとらわれるというよりも、逃避しているのである。

神経症者の精神は分裂しており、片方はニーチェの言う「力への意志」を求める自然な人間的精神があり、片方は理性的・社会的な仮面としての自己があるように思われる。そうしてこの理性的な仮面が、自然な人間的精神を抑圧していることから、神経症が発症しているように思われる。

これは私自身の経験から言うことだから、一般化はできないかもしれないけど、神経症の根底にはこの「力への意志」の否定、ルサンチマン的な「生の否定」の感情が強力にはたらいているように思えてならない。

自然としての自己は生長を求める。回路を破壊し、前進しようと試みる。理性的な自己は、これを阻止しようとする。自然としての自己は、他者と自然な交友関係を作ったり、夢目標に向かったり、課題や義務をこなそうとする。理性的な自己は、これを抑圧する。

さて理性的な自己がなぜ生長を拒むのだろうか?この点はいちがいには言えないけれども、私は親子関係にあるのではないかとにらんでいる。私の例で言えば、私の母親が私に「永遠で子どもでいてほしい」と願っていたように思われる。

はっきりとそう言えるエピソードはないのだが、母親は家庭内で孤立しており、末っ子である私に依存気味だった。私には兄が二人いるのだが、その兄はふたりとも反抗期を迎えており、母親には辛辣に当たった。祖父母はもとより母親と妙な距離感をとりたがる人だったし、儒教的・家父長主義的な父親は母親との関係よりも祖父母との関係を優先した。

それだから、母親が私に「永遠の子ども」たるよう望んでいたと、今では考えることができる。



長くなって仕事へいかなければならない時間になったので、ここまで。調子よく書けているので、仕事終わりに続きを書こう。

依存傾向のある人間に必要なのは、回し車を回し車と認識することであり、また自分が前進することよりも、回路の中を回りたがる傾向があることを、自認することである。そうすれば車はどこかへ消えて、前進することができるのだと思う。

2 件のコメント:

  1.  治すというのは、とても難しい言葉ですね。
    良くする、治すといっても、それは今そこにある何かの改変であるので、とくに精神の在り様に関しては微妙な問題です。常に生長しようとしながらも、どうしても超えられない自己の特性があり、それが受容できず苦しむ。そして、それが続く内にそうあることが普通の状態になり、自己認識の盲点になってしまう。けれど、所謂、一般論としての幸福を追求したいという生長への欲求が自分を押し上げようとする。
     これは、壁と壁に挟まれて次第にその壁に圧し潰されるようなものかもしれませんね。

    返信削除
  2. 生長が失敗することはありますが、それは通例であり、自然であり、健康的です。neuroticな人は高すぎる理想をかかげることが多く、そのため失敗の連続であり、しだいに「自分が生長したい」という感情を抑圧してしまうようです。

    また神経症者は「自己の特性」を生かして特異な才能を発揮すればよいのに、これをあえて殺して「普通」になろうとするところに、根本的な錯誤があるように思われます。

    返信削除