8.25.2016

上に

自己に対して然りを言うこと、これは成熟した果実である。(「道徳の系譜」ニーチェ)
長い神経症の患いは消えて晴れ晴れと日々を送ることができている。これまでの私は、神経症の間にあっても、こういった幸福感を味わうことが幾度かあった。 しかしその都度私は絶望に叩き落とされた。今度だけは……と思っても、最後には絶望の谷が待っていた。

ただ今回はおそらく完全な解脱と言ってもよいのかもしれない。「嘔吐」風に言えば、「記すことなし。解脱した」。……いや、記すことはいくらでもある。

私は孤独や絶望や不安や神経過敏の良いところを知っている。それは偽の幸福から遠ざけてくれる。
地獄についてのふたつの考え方。ふつうの考え方(慰めのない苦しみ)。わたしの考え方(にせの完全な幸福。あやまって天国にいると信じること)。(「重力と恩寵」ヴェイユ)
この世には階層があるという気がする。一番に「にせの幸福」の世界、二番目に「慰めのない苦しみ」の世界、最後に到達する「解脱」の世界。平等主義のひとびとは、「階層化」することに抵抗を覚えるのかもしれないが、実際に人間によって下等・高等があることは事実であり、だれしもが認めることである(むろん社会的地位とは別)。

ニーチェも三段論法は好きだった。すなわち「ラクダ」「獅子」「赤子」というのがある。ラクダ。ひたすら現世の苦しみを耐え抜く。獅子。悪や弱者に向かって容赦なく牙を剥き、破壊する。赤子は……ただ、「然り」を発する。

最近いろいろな本を読んでいるがニーチェやヴェイユやマズローやドストエフスキーなど雑多であるがそれらはすべて同じ方向を目指していると思われる。それは人格の向上ということである。内的覚醒である。

「悟り」のようなものは、いくら文章で書いたところで、同じ覚醒者にしかわからない類であって、そのことは私自身の経験からもわかる。「重力と恩寵」とか、「マズローの心理学」のような本は、5年ほど前に読んでいたにもかかわらず、今読むと理解の度合いがまったく違う。「だれでも読めるが、だれにも読めない」。

覚醒といってもなにか大事を成し遂げたわけではない。「朝早く起きてしまったので風呂の掃除をした」。この些細な出来事が私には信じられない進歩なのである……。「酒を一滴も飲まずに自然な疲れによって眠りにつく」。これも、私には獅子から赤子への覚醒なのだ……(大げさか。そもそも、まだ駱駝から獅子の段階かもしれない)。職場において私は「自分から積極的にはたらき仕事をこなそうとする」ようになったのであり、これもとても大きな変化で……周りの人が驚いている。

つまり、私は意志そのものの体現者となった。意志を抑圧せず、自分の本当にしたいことをするようになった。「おいしいものが食べたい」「健康でありたい」「人に好かれたい」「性交したい」「きれいな部屋に住みたい」「みんなに認められたい」「幸福な生活をしたい」……これら人として当たり前な感情を、ひとびとが抑圧してしまうのは驚くべきことである……。われわれは、基本的な欲求を抑圧するよう「教育」されているのであり、その教育によって、われわれは自分で自分を抑圧することを学習する……。それは個人の願望というよりは、社会的・国家的な要請であるに違いない。

成長への人間の本能は、強いというよりもむしろ弱いものである。したがって成長への傾向は、悪い習慣、貧困な文化環境、あるいは不適当な(まちがってさえいる)教育といったものによって、容易に押さえられてしまう。(「マズローの心理学」フランク・ゴーブル)

つまり、支配者層の要請は「高尚なことなど意志せず、地道に働き、つつましく生きるのが幸福なのだ」と庶民に説くのであり、この教育は体系的な国家を作るには必要といえど、一般に強固な意志を持つ神経鋭敏者は、内的意志と社会要請のあいだの矛盾にわけもわからないまま悩み葛藤し、ついには神経症のようなこじれた人格を作り上げてしまう。

私は自分が哀れな神経症者であって、「同時に」なぜ芸術家ではないのかということを考えたものだった。自分の鋭敏な神経は芸術家向きのはずなのに、音楽の面でも文学の面でもまったく芽が出ないのはなぜか?と考えることがあった。

今考えればその理由はわかるのであって私は十分に意志を発現することができなかった。基本的欲求を満たすことなしにどうして芸術的な成果を出すことができるのか。ゴミを散らかした部屋で過ごしてどうして芸術作品の校正ができるのか。一般的な芸術家のイメージは汚い貧しい部屋で一心不乱に作品に打ち込むのであるがそういう彼も仕事が一段落すれば普通のひとと同じく掃除するはずであり、「何にも打ち込むことのない人間」がただゴミを散らかしているのとは、道理がまったく異なるのである。

私は芸術家と同じく絶望に苦しみ放埒な生活を送っていたがしかしそれは「産みの苦しみ」の代償ではなかった。私の苦しみは何も生み出さなかった。私は苦しむために苦しんでいた。それでやっと今はなにかに手をつけようかという段階である。

私はもうあまり恐ろしいことがないという気がする。たとえば私は平均以上に楽器がうまくやれるのだが、ライブなどで人前にでると萎縮してしまい「ありえないミス」を連発してしまうのだった。この「病的なあがり症」というのも神経症のせいだったのであり、いまは観客や奏者や音楽と一体感をもちながら演奏できるという気がしている。だから音楽や、文章のような領域でなにかしてみようとかと思っている。

「神経症だった私へ」などとどこかで聞いたことがあるようなタイトルの本を書いてみようか?という気にもなっているのだが、ひとまず私はまるっと変わってしまった世界にまだ馴染んでいないのであり、掃除や公共料金の支払いなど、身近なことを整備してから取り組もうと思う。

今日はSに会ってくる。



8 件のコメント:

  1.  日本人のパーソナリティーの理想はもののあはれを感じる心だと思っています。無常感や盛者必衰、四季の移ろい、庭園、茶道、宗教観など、様々な側面で悲哀や苦悩、諦めなどを美しいと感じさせる教訓や芸術を産み出してきました。これは、和を尊ぶということがひいては己の我欲や世間の理不尽に対する恨みや憎しみを押さえ付けることに都合がよいわけで、逆に物凄い成功者があえて質素な生活をしていると好感がもてるというような社交術としても機能します。

    返信削除
  2. とても参考になり、朝から清々しい気分です。私も見習おう!

    返信削除
  3.  しかし、その美観を守り、例えば人に迷惑をかけないとか、常に思いやりを持ってとか、優しさと強さを持てとかそんな風に育て上げようと親が干渉してしまいます。どんな美しい理想や価値観であっても、人の願望を抑圧しコントロールするための大義名分としてその教えを振りかざしてしまえば、それは、相手のパーソナリティーを過剰に押さえつけ、対人関係において過度に緊張を強いるようになり、偏った見方や他者への寛容性のない態度を形成してしまうのではないでしょうか?

    返信削除
  4. 何にせよ、自由な発育を阻害しないことだと思われます。「人間は教育によって人間になる」というような考え方がまずいような気がします。人はそのままで人であり、放っておけば悪人になるようなことはありえず、むしろ反対です。干渉や教育は不要であり愛情だけあればいいのです。それでは愛情とはなにか、となると難しいのですが。

    返信削除
  5. 子どもは模倣することで人になってゆくと思うのだが、どうだろう。 それは「教育」だろうか?
    そして、なにが〈もののあはれ〉を日本人に感じさせているのだろうか? なにが古学者に日本人のアイデンティティーとして〈もののあはれ〉という概念を立ち上げさせたのか?

    返信削除
  6.  人間は弱く、そのため他者の援助なしには生きられません。その為にお金や、宗教、政治、階級などの仕組みを作り、人に命令したり、サービスを受けることに正当性を持たせました。しかし、究極的には、何の制約もなく自分の利益のために他人が動き、サービスを受けられるようにすることを求めており、機械や自動化などの科学技術が発展してきました。
     つまり、人間の求める究極的な存在とは、人間よりもはるかに優秀で、何を要求しても全く逆う心配のない奴隷または環境だと考えます。
     つまり、もののあはれとは、自分を損ない、抑え他人のために精一杯生きた人を讃え、またその苦しみ哀しみを慰撫することで、現実には富み、栄え、十分に生活的余裕がある者と、飢え苦しみ、病苦に苛まされる人がいたとしても、富める者に貧しい者が仕える理不尽を諦めや、神格化すること、芸術や徳育のなかで褒め称える事によって正当化するものだと考えます。

    返信削除
    返信
    1. 事実、支配者階級が自らの身体に、おのずと顕れてきた〈もののあはれ〉の情感を詠ったのであり、支配のために考案された概念装置ではないはずです。彼らが見、聞き、嗅ぎ、味わい、関わりをもって生きていた「自然」が〈ひと〉である彼らに〈もののあはれ〉と後に言語化される美意識と情感を感じさせたのではないだろうか。
      それゆえ、仮に〈もののあはれ〉を強者が弱者を支配する現実の正当化のための概念装置として解釈されているのであれば、それは歴史の「現在」の地平において解釈されているにちがいない。明治の役人の思考であり、近代人の思考です。我々の生きている世界がそのまま〈もののあはれ〉を詠った彼らの世界ではないはずです。〈ひと〉は「自然」と断絶された存在ではなく、〈ひと〉自体が「自然」を内在した媒体として生きていることが現代哲学・文学の成果で明らかになったのではないですか。「ことば」も「自然」と関わり合い、〈ひと〉の身体を通じて感受される感覚によってはじめて「ことば」になります。そして〈ひと〉のまわりの「自然」が〈ひと〉の身体動作、すなわち〈ふるまい〉に影響を与えています。だから西洋人の身体の使い方、日本人の、東南アジア人の、南米の人の〈ふるまい〉は異なるはずです。
      我々の先達は「自然」との関わりのなかで生じたコスモロジーのなかで、たしかに〈もののあはれ〉と後に表現される感覚を感じていたのです。しかし後に近代思想に毒され、コスモロジーを解体してしまった江戸後期や明治の官僚――すなわち近代人――が〈もののあはれ〉という概念装置を利用することによって〈ひと〉を支配・操作しようとしたということです。

      削除
  7.  しかし、遥かに昔の釈迦も言っているように、いずれは人は末法の世に至り、悟りも得られず国土も人心も荒廃する時代が訪れると説いています。
     我々はもはやもののあはれを支配装置として使っている人の心の有り様や国土の在り方に、ある種の常識や普通の出来事としての認識を持っている筈です。神はまやかしであり、人は自由で貪欲であるべきだと。私はその象徴として人工知能の確立と核戦争は必ず起きると思っています。そして、大きな地震はまた必ず起きるでしょう。
     その時に人がまた、神を信じ、真心や理不尽を慈しむ心を取り戻すかどうかは、私には半信半疑なのです。

    返信削除