8.04.2016

雑記

私はいま、一時的に別の部署にいるのだけども、その部署の人間関係がうんざりするようなものであり、私はもう仕事に行きたくない気分でいっぱいなのである。

ある夜オーナーから電話があり他の人員が働いているのにも関わらず私が定時に帰ること、私が勤務中に菓子を食べてることを注意された。私は定時に帰ることは当たり前だし、菓子(というかチョコレート数切れだが)をとらないと昼前や夕刻前に低血糖気味になり、能率が悪くなる、というか極端に体調不良になる(立ちくらみ、手足のしびれ、焦燥感)ので食べていると説明した……かったが別に言わなかった。

そも前の部署では同じことをしても怒られることはないのである。それで私は監視され密告されたような気分になりとても嫌な気持ちになった。

マア私が辞めたら困るのは会社という状態になっており、田舎の小企業だけにまともな人員は少なく、その密告しただろう人物もかなり精神的に異常であることは否めない。オーナーもやむなく私に訓告したという形であり形式上こういうことを伝えておかないとその密告者もおさまらないということである。

職場の小さな人間関係に煩わされたくないという思いがある。私は現在の部署の人間がどうなろうとまったく興味がない。こういう人間は思想的にも人格的にもまったく低いのであり、仕事という束縛がなければ一顧だにしない類のものである。私は最初、この部署の環境が悪いのだと思った。つぎには根本的に、人格の低俗さによるものなのかもしれないと思った。

人格的な高みと低みがあることは不思議なことであり、興味をそそられる人間は意外と少ない。ある程度学歴と相関はあるけど、苦しみの経験と、知への愛と、このふたつがある人は、私の興味を引く人間である。

サイコパスが根本的に人格的魅力を欠如しているのは、苦しみを持たないからである。彼らは憤怒を持っても、苦しみを持たない。苦しみとは痛みではなく全人格のゆらぎであり喪失である。麦が踏まれれば強くなるが、人格も踏みにじられることによって強くなるものだ。

そうして苦しむ人間がいきつく先は智慧であり、暗闇のなかの虫が光を目指すようなものであり、苦しむということと智慧というのは、ほとんど相関する。そういうわけだから、智慧とは苦しむことであり、苦しむこととは智慧であり、このふたつは同一である。苦しむことも、ひとつの才能だと、ニーチェは言っていたと思うが。

恥ずかしげもなく他人を攻撃する人間は、自分のしていることを知らないし、また「彼らはすでに罰を受けてしまっている」のだと感じる。

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