8.05.2016

語れるもの/語られないもの

それでまあ昨日のブログをあらためて読むとひどい有様でありこんなことを公表しても意味はないのだと思われる。仕事中お菓子を食べていることを注意されて云々~というどうでもいい話である。

それにしてもひとつの人格はあらゆる事由が絡み合ってできているから難しいものである。ある不仲な夫婦があるとして、お互いつねにピリピリしているのだが、その原因が実は住居の近くを通るバスの騒音だったということがある。そうして双方ともその事実を認識せず、なぜこんなにうまくいかないのかと嘆く。車の騒音でなければ壊れた水道管のぽたぽたと水の落ちる音でも良いし、照明が明るすぎるとかいうことでもよい。

あんがいこういう事例はよくあるのであり、同様のことに目をつけたのがフロイトであった。フロイトは「語られない」領域であるセクシュアルな要素が、人格に甚大な影響を与えることを説明した。

そういうわけで我々は「語れるもの」「語られないもの」という区切りをどこかでつけているのに違いないが、あんがい「語られないもの」の領域というのは大きいのではないかと思う。この二項は単純化すれば意識・無意識の関係である。

たとえば呪術などの領域は、この区切りを外して巧妙に利用したものだと言えるだろう。陰陽道=風水においては玄関に黄色いものを置くと金運があがるといった類の話があるけども、この黄色いモノがわれわれに与える影響はほとんどが「語られない」影響である。われわれは毎日目にする置物にさほど注意を払わないからである。無意識に影響し人格を左右することから、風水というのはひとつの呪術に近い。

いったんこれを悪用すればマインド・コントロールなど容易になるのだろう。表面的には「語られるもの」に注意を向けさせておきながら、その実、無意識領域に訴えることができれば、巧妙に人格改変や意志のコントロールが可能になるのではないかと思う。

そも「語られるもの」「語られないもの」の区分は我々の社会通念に従うともいうことができ、そうなるとわれわれは国家という体系に言論・思想も支配されていると言ってもよいのかもしれない。つまりわれわれは意識的には民主主義国家における市民であり、おのおのが国家の統治者であると考えている。しかし語られない領域においてはエリート官僚だの資本家だの、まあなんでもいいけど統治者に支配されているわけである。

ウォーラーステインは科学万能主義ともいえる現代を批判し、われわれは確かに科学という「語られるもの」を得たけれども、それと同じかそれ以上に「語られないもの」を失ったのだ、というようなことを言っていた、はずだ。

意識と無意識の区切りをどこに置くかということ……無意識―語られない領域に目を向けること、が重要なのだと思った。なんか冴えないことを書いたが仕事へ行く。

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