8.22.2016

神経症者の持つ才能

まじめなことばかり書いていたら疲れてきたので気ままに散文でも書こうと思う。

酒をやめたら身体がしゃっきり動くようになりまた視界がクリアになった。中島らもが禁酒したときに「世界が鮮やかに見えて楽しい」というようなことを言っていたが同じ感想である。勤務中に眠くてしかたないということはないし、同僚と会話するのがめんどうで上の空ということはない。いつも昼休みは中盛り程度の弁当を食べてぐっすり寝てしまう、という状態だったが、今日はパン二つ程度の軽食で、あとはコーヒーを飲みながら音楽を聴いて過ごした。それで午後もしっかりと身体が動く。

職場の人間は、Sがいなくなったら私が意気消沈するのではないかと心配していたらしいが、反対に私が生まれ変わったように仕事をこなすのを見て、驚いたようだ。実のところ私自身驚いているのであり、ふつう恋人と別れたときは意気消沈するものなのだが、私にはそれがなかった。多少の痛みはあったが、すぐに気にならなくなった。バカな男のようなことを言うが、私はSと深く結ばれており、遠く離れていったとしても、根底においてつながっているように思われる。

神経症はやはり快癒に向かっていた。職場においても私の神経症は悩ましい存在だったが、今日の私は神経症ではない「まともな人」のように、ごく普通に仕事をこなしていた。まあ私はもとから「まともな人」だった。そのことに気づけないから、神経症だったのだ。

私は自分を異常者だと思いつづけた健常者に過ぎない。私は異常者でありたかったのだと思う。そうすれば私は厄介ごとから逃れられるからだ。

もちろん私は何度も神頼みのような真似をした。その願いは真剣そのものだった。この病を治してください、神経症さえ治れば私は幸福になれるのです、と。苦しくて布団を噛みながら嗚咽した夜もあった。この神への願いは10年以上続けたが、しかし、神は私を救わなかった。健康な人間が治癒を望むこの喜劇!万能の神にも「救いようがない」ということがあるのだ。

それで身体の調子よく精神的にも健康という状態である。なにか物事をはじめようという気持ちになる。



風呂でニーチェを読んでいると、たとえば彼の対比させた「ローマ人⇔ユダヤ人」とか、「アポロン⇔ディオニュソス」、「よい・わるい⇔善・悪」、「超人⇔末人」などの用語の対比が、自分の精神状態の分裂によく似ているように思われる。

仮面としての自己、自然な生としての自己が私のなかにあり、長く仮面的自己が自然な自己を圧倒していた。形式主義的、理想主義的、「こうでなければならない」という強迫的な行為を意志する「仮面的自己」というのが、ニーチェの言葉でいえばアポロン的・ユダヤ人的・善悪道徳的・末人的な自己だったのだと思う。それで、私はこの末人的傾向をようやく克服できたのではないか?と思っている。
生あるところ、ただそこにのみ意志もある。ただし生への意志ではない。そうではなく――わたしはお前にこう教える――それは力への意志なのだ。
それぞれの力の中心から発するより強くなろうとする意志、これだけが唯一の実在である――自己保存ではなく、わがものにし、支配し、より大きくより強くなろうと意志すること(Mehr-werden-,Starker-werden-wollen)
さて「末人」をwikipediaで調べるとこうある。
末人(まつじん)とはフリードリヒ・ニーチェによる哲学によって用いられていた概念である。ツァラトゥストラはこう語ったで述べられ、超人の対極にあり最低の軽蔑すべき者とのことである。末人というのは社会において生きる大多数の中流市民でもある。彼らは病気になることと疑うということを罪として考えて生きている。そして互いが摩擦を起こさないように、ゆっくりと歩むようになる。彼らは貧しくもなく富んでもおらず、これらはいずれも煩わしいものであるとされる。人々がこのようになれば、人々を統治しようと誰も思わなくなるし、他人に服従しようとも誰も思わなくなる。人々がこのようになれば社会には牧人はいなくなり誰もが平等であり、誰もが平等を望む社会ということでもある。末人の生き方というのは、ひたすら安楽を求めるということである。社会においての最高価値が信じられなくなりニヒリズムが広がってきたならば、人々は頑張らなくなり創造性を欠いた安楽を求める人間ばかりになるということであり、このような状態になった人間というのが末人ということである。
よく考えてみるとこの「末人」とは匿名掲示板でよく見られる人物であり、そうして匿名掲示板は究極的に「平等な社会」である。金持ちも貧乏人も智者も愚者も一個の発言者でしかない。

さて神経症者の理想は「安楽」である、と言えると思う。不安や苦痛から一刻もはやく離れたい。「ふつうの人」となり、安心して生活したい。「世間一般の幸福を目指す」これは一見自然な感情ではあるけれども、しかしニーチェによれば「最低の軽蔑すべき者」ということになる。

神経症者はまず平凡な人間になりたがっている。……ここでコリン・ウィルソンの言葉を思い出す。
「アウトサイダー」は何よりもまず「アウトサイダー」たることをやめたがっている。といって、「アウトサイダー」をやめてあたりまえのブルジョワになりはてることはできぬ。いかに前進するかが、彼の問題でなければならぬ。(「アウトサイダー」)
コリンの言うとおりであって、神経症者のひとつの誤りは、「大多数の中流市民」に憧れることである。それは怪物が人間に憧れるようなものであって、野獣が人間になったとか、人間が豚になってまた人間に戻るとか、そういうことに意味はないのである。怪物は怪物のまま生きるのが正解だ。

それでもこの市民社会においては、そういった「中流市民」が理想化される。それはオルテガの批判した大衆主義でもある。社会的・国家的・宗教的なイデオロギー教育によって我々は大衆であるべきと洗脳される。たとえばわれわれのだれが「サザエさん」のような家庭を否定できるだろうか?まただれが「平等主義」を否定できる?

神経症者が理想とすべき人間は、一般人よりもう少しましな存在でなければならない。「成熟した人格者」に会わなければならない。しかしその人格者は、決して多くないように思われる。

大多数の人間は「安楽」を求める。安楽とは「動かなくてよい状態」であり、それは生のはたらきではなく、もはや死への衝動であると言えるだろう。

神経症者は根本的には、末人であるようにできていないように思われる。「力への意志」を持つべき存在だと思うのである。その才能をうまく開花させなければならない。
<天才とは狂人である>...私がこんなばかげたことを言ったと思われている...そんなことはない、天才はまさに天才であり、狂人はまさに狂人である。これはまるで違うことだ。私が言ったのは、天才と狂人は同じ器質的起源を持っているということなのだ。
天才と狂人はひとつの幹から出る。遺伝によって体質のうちにあったり、先天的法則によって完全に作られた「同じ器質的条件を伴っている」。それらの条件は個人のその後の展開によってさまざまに変容するが、時に狭義の神経症、また時に知的突出を、ある者には痴愚や狂気、またある者には非凡な知的・精神的能力といったものをもたらす。そしてほんの少数の者のうちに知的ダイナミズムの最高度の表現、すなわち天才をもたらす。(「創造と狂気」フレデリック・グロ)
私は狂人が天才になることはあると思うし、その反対もあると考える。

神経症の治療に「作業をし続ける」ことがほとんどゆいいつの効果的な方法(森田療法)であるのは、作業がとりもなおさず生の本来的なあり方の模倣になるからである。無心になって草をむしることが、人間の本来の生のあり方を教えるのである。人間の目指すべき「理想状態」とは、どこか天国のようなところに安住することを意味するのではない。そんなところは死んだあとにゆけばよい。生きてある限り、われわれは力を志向し続けなければならず、それは理性の挟むことのない衝動の連続なのである。

神経症者の病理的な錯誤は、本来的にひとより優れている人間が、平凡な人間を理想化し、それに同化しようと試みることにあるのではないかと思う。神経症者はわざわざ自分を低い存在に合わせようとする。それが「社会的な要請」なのである。しかし神経症者のエゴは、これを否定する。この分裂が、神経症の症状として表出するのではないかと私は考える。

だから、神経症者は本来は才能ゆたかに生きることが可能だった「もったいない」人々だと言えると思う。昔、下のような記述を本で読んだとき、反発したものだった。
芸術家はより強固なエゴの強さを持っているという点でも一般人とは違っている。ことばを換えていえば、芸術家は自分の精神病理によって一般人より大きなストレスに苦しむかもれないが、彼らはより優れた制御器官を持っているのであり、神経症や精神病には他の人と同様かからないし、かかってもたぶんほかのひとと同程度なのである。(「創造のダイナミクス」 アンソニー・ストー)
神経症である私が、劣った制御機関を持っているとは思えなかった。また、私は神経症が一生治る見込みがないと思っていたし、神経症のまま社会的な成功をするつもりだった。だから神経症者が芸術家になれないということが、信じられなかったのである。

しかし今では、神経症者が「天才のなりそこない」であることがわかるし、感情の制御に「劣っている」ということが理解できる。長くなったが、今日はここまで。ただ日記を書こうというつもりが長くなった、酒をやめると集中力がつくようだ。

9 件のコメント:

  1. Sさんとの別れをすんなり受け入れて、それで本当に良いのだろうか?と、余計なお世話と知りつつも、恋愛下手な私は考えてみたりする。女は上書き保存思考と言うし。

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  2. 本心ではSを諦めたわけではありませんが、今は引くことが最適なような気がしています。私も恋愛下手なのでよくわかりませんが。

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    1. 自己防衛の心理で、セルフハンディキャッピングというのがあります。あなたが変に我慢されているような気がして、なんだか胸が苦しくなったので・・・。恋愛は難しいですが、おそらく素晴らしいものだと思います。ついお節介を焼いてしまうのは、あなた達がとてもお似合いであったからこそで、申し訳ない。

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  3.  天才のなりそこないの人にとって一つ人になかなか言えない性質が、他者への無関心と自分は他とは違うという意識ですね。水清ければ魚住まずとあるように、一般の人と折り合うには、自分の認識をかなり抑えて、その敏感な感性や、鋭敏な知性を鈍らせなくてはならない点に苦しみや葛藤があります。
     だから、ある人は酒に溺れ、またある人は遊興にふけるのでしょう。もしくは、自分の思想に閉じ籠るのではないでしょうか。その様な傾向から、天才のなりそこないの人が世の中との接触をとるためには、協力者や理解者が必要です。そして、勿論自己の認識を改めるべきは改めるという気持ちも必要です。しかし、なりそこないの人は、その様な有効な対策がとれないために、自己不全感に悩まされるのかもしれませんね。

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    1. 漠然と思うことなのですが、中流以下の家庭に神経質の人間が生まれると、神経症として人生を台無しにすることが多いような気がします。もとから大衆主義を抜け出ている上流階級であれば、神経質な人間はその才能を伸ばし幸福に生きる可能性は高いと思います。下流・中流に生まれたneuroticが、個人の力でイデオロギーを脱することはたいへん難しいように思われます。ある意味で神経症者は、階層構造による被害者と言えなくはないのではないかなと。ちょっと言っていることが一般的な論理から逸脱してますが……。

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  4.  ご返事ありがとうございます。確かにおっしゃるような階級意識における理想と現実の齟齬というのは確かにあると思います。人格的に優れ、最も優秀な人間が必ずしも上流層にいるわけではなく、例の東京都前都知事や、件の西宮県議のように、一般人の感覚とはかなりかけ離れたエリート階層の人々もいるわけです。ですから、何故自分ばかり自己肯定感が低く、無能感や社会不適合な想いをしなければならないのだろうと感じられることは自然な考えであると思います。
     

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  5.  しかし、なりそこないの人がいかに優れた人物だったとしても、適切な努力、特に優れた能力、自分を演出し、キャリアコーディネートできる力、自分を生かし伸ばせる環境、人よりもかなり大きな運、ここ一番で成果を出せる勝負強さ、狂人並みに寝食を忘れて没頭できる集中力などがなければ中流階級にいる人間が上流層に食い込むことは難しく、逆にそれだけの能力があれば、世俗の様々批判や嘲り、常識や権力志向などに心を惑わされることもないのではないでしょうか?

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  6. 上にあるような神経症者と芸術家の違いは、まさしく「狂人並みに寝食を忘れて没頭できる集中力」があるかどうかなのです。ライオンに追われているときに、赤面しているか、ガスの元栓を閉めたか気にする神経症者はいません。神経症の病理とは、目標を見失うことにあります。行為に没入できないことにあります。本能が死んでいるともいえます。

    私が社会階層云々というのは、下層にあるneuroticにはその目標が用意されていないということです。neuroticは創作行為を好みますが、音楽家や絵描きになれる人間はそもそもが裕福ですし、芸術に理解のある知識階級を親に持たなければなりません(真の天才は別ですが)。下層のneuroticには目指すべき道がなく、それゆえに神経症という病んだサイクルにはまってしまいます。社会へ絶望するのです。一般的にいって、下層社会は厚顔でゆかいで没個性的な人にしか用意されていません。そういった屈折があることを、私は言いたかったのです。

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  7.  天才の狂人的な集中力は、実はまさに黒崎さんがおっしゃる「アウトサイダー的」立場が大きな影響を与えているように感じます。
     人付き合いが苦手、運動神経が悪い、親に捨てられ親戚をたらい回し、傲慢で頑固、仕事ができない、女好きだが容姿が悪い、異常なこだわりがある、このような後ろめたさや、普通にできない悔しさ、孤独に陥らざるをえない性、これらの要素がある人の中に天才となる人が現れるように感じます。
     ただしこれは、必要条件であって、そのような人の中には当然何者にもなれず、社会の隅でこそこそ生きていかなければならない人もいると思います。

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