8.07.2016

系譜

近代以降の日本人の精神性についていろいろ考えているがこの点に関しては渡辺京二のつぎの記述がすぐれていると思う。
実体として利害の体系である市民社会を指向しながら、幻想として共同体的な正義が貫徹されてあるものと擬制しなければならぬというこの絶対矛盾は、わが近代史をつらぬく基本的逆説となった。誇張していうならば、われわれの近代政治史の過程はことごとく、このほんねとしての前者とたてまえとしての後者の角逐ないし錯綜としてとらえることができるほどである。
性急な近代化を求められた日本国家と下層の人民の錯綜。われわれはいまだにこの矛盾を克服しているとはいえないが、もう近代化はある程度なされたし、今後も充実していくのだろうと思う。

たとえば私は「町内会」というシステムにたいへん違和感を感じていたのであり、いろいろ調べたのだけれども、この「町内会」は共同体的正義に属しており、それに疑念を抱く私は「市民」としての個人主義的な正義の立場をとっており、ここにあんがい深刻な齟齬があったのだと思う。また日本社会特有の「ブラック企業」というものも、おなじ要因に依るのだと思う。だから町内会やブラック企業というものを、安直に一蹴することはできないわけだ。

私は不幸というものは、近代以降に始まったと思われた。それはある意味で楽園からの追放だった。日本人は近代以降、一である生から苦しみと不幸をとりだしてきて、それと向き合わなければならなくなったのである。不幸は異国で発明されたのである。

そういうわけなので現在日本では知的エリートは合理主義的価値観をすでに持ち合わせているのだし、田舎のじいさんばあさんといった類のひとびと、あるいは下層の若者などはこの共同体的価値観を持ち続けているのだろう。ドイツなどでもやはり近代までは輪廻転生など土着信仰が普遍的に信じられていたらしい。

マア近代合理主義的価値観と日本古来の集団主義的価値観のどちらが良いのかはわからない、幸福な豚より不幸なソクラテスという言葉もあるけれども。向上心のない奴はバカだって?

現実にわれわれは便利な生活を送っている、スマートフォンだの、発達した医療だの、自動車などは、合理主義の結晶とも言える産物である。しかしそれでわれわれは豊かになったのか、どうなのか。もちろん便利で快適にはなっただろうけど。まあ渡辺京二というのはおもしろい思想家だと思うので、今後も読んでいきたいと考えている。


昨日はSとの関係が少しギクシャクしてしまった。ひとと長く一緒にいることに慣れていないからだろうし、私がすこし風邪気味だったこともある。それで日曜日の今日はSと会うことを辞めた。月曜日から昨日までの6日間、毎日Sと会っていたので、ひさしぶりの孤独の時間だ。

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