8.16.2016

恐るべき女

今日はSに説教を受けていた。

年下の女に説教されるなどはじめはムッとしていたがSの語気に真剣さがあり私もしっかりと受け止めることにした。その内容は「お前は他人に気をつかわない、気をつかおうとしない」ということだった。べつに痴話喧嘩というわけでなく、仕事中の私の態度を指摘してのことだった。たとえばあるAという社員が風邪気味でつらいところを、自主的に手伝わない、というような。

私はだんだん、この女がかつて以上に神聖に思われてきた。彼女は私のかなりcrucialな部分を治療しようとしているのだと思われた。そしてそれは大仕事に違いない。

私が自己愛性人格障害について調べていたとき、ほかに人格障害が見つかった。それは回避性人格障害というもので、「傷つきと失敗を恐れるあまり,人と接触したり,課題にチャレンジしたりすること自体を避けてしまうことを特徴とするパーソナリティ障害」とあった。私はかつての自分は確実にこれであったし、いまでもそうかもしれない、と思った。

Sはこの反対の人格を持っている。他人の痛みと自分の痛みに敏感だが、ひととの接触を好んでするし、また人間関係上の課題を克服している。

私はSのような人間を、自分と別個の存在なのだとどこかで思っていた。それは生まれ持った特性が違うのだ、というふうに考えることもあったし、知性的に洗練されてくると、自然と社交を回避するようになるものだと考えるようになった。

ただSは私のその性質を不快だと切り捨てた。もっと他人に興味をもって、他人と交流しろと。私ははじめその考えを幼稚だと拒絶したが、Sの言うことももっともだと思った。そのうちに彼女は、ただひとり真実を知る子どものように見え、哀れに思えて愛おしくなった。

Sは私の心に躊躇なくメスを入れるのであり、その仕事は精確で自然だ。だから私はSのことを受け入れるようにしている。よい医師に対するよい患者のように。

Sは恐ろしい女であり、私ごときではとても手に負えないようである。それでいて、私を道具のように利用するようなそぶりはない(彼女にはそれが可能だろうし、それで稼いでいた時期があった)。彼女は、私の人格を高めてくれるようである。それだから私は、しだいにSが不要になるだろう。患者が健康になったとき、医師は不要なのだ。それでもなお私を治療しようとするSを、聖女のようだと私は考えるのである。



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