8.02.2016

BUTTERFLY

Sは私に、お前は文章を書くのが得意なのかと問うた。それでSはテーブルの上にあったフーコーの本を開いていた。私は得意ではないと答えた。実際得意ではないと思っている。こうして何千もブログの記事を更新しているけど、世間の日の目を浴びるようなことは一切記述できていないからだ。

こういう本を読む人は、著述が得意なはずだ、とSは言って、それからフーコーの臨床医学に関するなんたらを朗読し始めた、それは部屋に充満し不思議な呪文のようだった。私はもうフーコーなどあまり読む気がせず、そういう情熱は20代の前半くらいにはあったけど、今はもうないと言った。

Sはこういう本が読める自分がかっこいいとか優れているとか思って読むんでしょう、と言った。私はその通りだと応えた。だれでもそういう感情がなければ、読み進めるものではない。私は選ばれた人間だ、知的に優れた人間だ、だからこの秘密の智慧を授かる権利がある(はずだ)という想いがなければ、ふつうのひとびとは哲学書なんて正面から取り組まないものである。そこに書いてあるのは意味があるのかないのか実際にはだれにもわからない浮遊した羅列である。疑念を消して沈面しなければならない。そこに価値はあるはずだ。答えと、光があるはずだ。

フーコーが天才なのか頭がいかれたホモなのかわからないが確かに昔著作を読んだときには比較的わかりやすく真実に近いと思った。しかし孤独な大学生にとっての知と田舎のサラリーマンにとっての知は違う。私は大学生のときに完全な孤独だったし、いまはSという理解者がいるからそういった意味での世界への感じ方も違うのである。

それでもニーチェはしつこく私の脳裏にこびりついて離れない。私にとってニーチェはたしかに天才であり賢人である。そうであるけども、一定して私はニーチェに対して「いい人」という感覚を抱いている。私はニーチェに、際限ない愛情を感じてしまう。ニーチェは慈愛の人、気のいいおじさんだったのだと思う。案外フランクで、臆病で……。ルー・ザロメを友人にとられても、笑顔で写真をとったおじさんなのである。

私はこれまで思想ということにずいぶん時間をとられたけども、ある硬直し定立した思想というものにはさほど意味がないことを知った。それらはすべて「理論」であり、ロゴスに立脚するものであると私には思われる。私はそれよりもずっと、無意識の領域に関心がある。それは記述されない領域であり、記述できない領域である。その点をあきらかにしないと、思想や発言というのはまったく空虚なもののように思われる。

とは言っても私もだいぶ脳の衰えを感じるのであり、私はもう花開くことはなく、世間に認められることはなく、偏屈な人間として残りの半生を生きていくのである。私の生命燃焼の半分は、終わった!みなさん、おつかれさま。そうしてもっとも明るい時期は終わったのだ。私は静かに砂に沈もうと思う。

Sへの抱擁と愛撫がひとつの可能性を持っている。

1 件のコメント:

  1. いや、明るい時期はこれからでしょう(笑)今という時間は二度とやって来ないから、いろいろ感じておおいに楽しもうよ!

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