8.12.2016

Complicated

現実の私は、充実して幸福を感じるとともに、思想はだんだんに退化して、かつて愛したものたちが、気づかないうちに手から零れ落ちていく感覚がある。私は何者かになろうとしたけど、世俗的な喜びにしだいに夢や理想を忘れて、今日のパンと、今日の性交と、職場でかかえこむささやかな問題と、毎月ふりこまれる潤沢な給料とに安住している。

まあだれしも幸福を求めるものじゃないか、金もあるし、彼女に近い存在もある、今の若者なんて悲惨なものだよ、年収はよくて300万円、車なんて買えないし、女の快楽を知らない奴もいる。いったい何を悲しむ必要があるんだ。お前は恵まれている――

若さの恥辱と、年寄りの不潔と。そりゃあまあ、私はあるていど、自己肯定感をもつようになった。宗教や哲学や精神医学や社会学を勉強した。そうして長い苦しみのときは去った。持続する光をこころのうちに持った。そうしたらこんどは、退屈に襲われるのだからやりきれない。

職場の若い女が人格障害で苦労していると言っても、お前は神経症なのだから笑い種だ。目糞鼻糞という奴だ。じっさい、お前はその女のことが、少し気がかりなのではないか。内心は自分と似ている部分があることを認めている。通底するなにかがあるはずだ。

それはたしかにある、というか、ああいった人間に対してはだれしも多少の共感を抱くものだ。彼らはけっして悪人なのではない、彼らはただ、目の開ききっていない子どもなだけだ。私は依然としてサイコパスを「悪」だと思う、この世の大半の悪はサイコパスによってもたらされると思っている。しかし自己愛性人格障害のような人には、見た目の悪性と同じくらい生まれもった善性が存在する。だからすこし難しい。

私はサイコパスを、ルシファーのようにしか考えていない。それは悪そのものなのであり、世に害悪をふりまく存在であり、可能な限り彼らの行動を制限することが必要だと思っている。私はサイコパスにどれだけつらくあたっても、罪悪感を抱くことはない。しかし、自己愛性人格障害は「傷つく能力」を持っているのであり、より人間的であり、私が必要な手段として防衛的に攻撃的態度をとるとき、私は葛藤に苦しむのである。

理性においてはそういった態度をとることが、必要でありまた適正であると判断できるのだが、いかんともしがたい。自分が害されることも許容すべきなのか?私は他者に煩わされたくない。距離を置ける人間には、置きたいと思っている。

すこし酔っぱらってきた。いよいよ人生が混濁してきたなと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿