9.11.2016

向上するおじさん

意図的にブログを書かないということをしてみた。ブログを書くということが神経症の治療となるのであれば、神経症が治療になった今、記述は必要ではないのかもしれないと考えた。

それで更新をやめてしまったら、それはそれで快適に生活できるようになった。朝の何十分かをかけて書いていたから、その習慣をやめてしまうと、仕事に集中できるようになり、疲労感もなくなった。また本を読む時間が、ずっと増えた。

禁欲は続けているのであり、酒、たばこ、匿名掲示板、ポルノ動画は断っている。あとは「猫背禁」もしている。とくに断酒の効果が大きく、飲酒と神経症によって私の十年近くはまるで無駄になってしまったな、と思うこと多々。

「神経症が治る」ということは全人的な変化が必要であり病巣の改善というよりも世界認識の変化が必要ということである。これを具体的に言葉で表現することは難しいけどまあ精神の病気というのは肉体の病気とはまったく違うプロセスが必要ということである。

神経症を治療した人の記録を調べると対人恐怖症が50歳近くでやっと治ったという人があれば、死恐怖症を22歳で克服したという人がいる。神経症は人生を停滞させる恐ろしい病気であるように思う。神経症は前進を不可能にする。ただ、神経症者は内心では前進を「恐れている」のであり、症状を求めているのであり、この倒錯が治療を困難にしている。

それで私は治ったのだからいろんなことに手を出そうとしている。そのひとつはセックスに対する忌避感の克服である。性というものに折り合いをつけなければならない。淫蕩にふけりたいということではなく、人的な成長のためには、性的成熟ということがどうしても必要だし、私にとって女とは「なにもかも謎」なのであり、その謎を克服せねばならないと思うようになった。

私は「セックスをしてこなかったおじさん」である。もっとも現代では童貞は珍しくなく、性生活など放棄してもやっていける時代ではあるのだが、たとえば十分に女性を満足させる技能とか、女性を喜ばせるような儀礼を身につけなければならないと考える。とくにSとのセックスで、私は醜態をさらすことが多く、これはみっともないことだと考えること多々。Sと結婚したいと望む私だけど、セックスで喜ばせられなければ生活がうまくいかないのは必定である……ので、「性の遍歴」をしてみようかと考えている。好きな人を喜ばせるためにセックスの旅に出るというのだから奇怪な話である……。

考えてみると、私が性行為をした女性はのべ七、八人くらいになるのだけど、そのいずれも性交の習慣が長続きすることはなく、ようは私のセックスが下手だったと言えるのではないかと思う。とりあえず房中術の本(六千円!)を買ってみたので勉強してみよう……。

性的な成熟を目指す理由は「神経症者はすべて性的障害を抱えている」というある精神医学者の言葉にあり、そもそも鬱病だろうと統合失調症だろうと性的障害はあるのだろうが、心身の健康の指標のひとつとして、性的な満足ということがどうしても必要だと考えるのである。それは単に適度な性交が必要ということではなく、男女間の「つながり」の構築が人間の生活に必要だと思うのである。その意味は、結局のところ、「母親以外の女との関係構築」ということであり、「性的障害」とはつまり「母親との歪な関係」が影響していることはほとんど疑いがなく、それを克服することが、精神的障害の治療にも関係してくると思うのである。

それでセックスばかり考えているのではなく、精神的な向上も目指しているのであり、仏教の古典を読んでいる。というか中村元ばかり読んでいる。あとは仏教が成熟した段階である、密教の関連も読んでいる。仏教、実におもしろく、聖書やコーランを読んでもぴんとこないのだが、仏教は「わかる、わかる」と共感を持って読めるのであり(日本人だから当然なのだが)、なぜキリスト教や西洋哲学より先に仏教を読まなかったのか、と悔やむことしばしば。


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