9.26.2016

記録

昨日

朝、起きて、だいぶ自分が快復していることを知った。というのも、朝ご飯を食べようという気になるし、多少脂っこいものであっても食べてやろうという気になったのである。

食欲と同様に、物欲もわいてきて、一眼レフを買おうか、高級コンパクトカメラを買おうか、さんざん悩んで、朝から悩んでいるうちに、自分が驚くほど快復していることに気づいた。土曜日にもらったうなぎ弁当が良かったのかもしれない。私は明るく、活発になった。

ここ一週間ほどは、絶望に悩み、もう絶望がほとんど私を殺しかねないほどだった。私の体重はみるみる減っていったし、職場においても勝手に涙がこぼれてくるような、いささか異常な状態だった。そのあいだ、時間さえあれば、ほとんど強迫的に読書を続けていた。心理学とか、宗教とか、哲学に関する本を、起きている間はひたすらに読み続けるのだった。それが、「もうどうにもならない」ということを知った翌日には、回復したのだから、おもしろいことだ。

昼になると、バイクに乗って林道の先の広場でウィリーの練習をした。あまり上達することはできなかった。雨が降ってきたので帰った。そのあと、図書館へ行った。日本仏教に関する本を読んで、あとはデュルケームを少し読んだ。あまりに空腹になったので、弁当を買った。ちいさなハンバーグが入っていたが、気にせず食べることにした。久しぶりの牛肉だが、おいしいとは感じなかった。夜になっても、元気だった。図書館にいても、あまり読書しようという気にならないので、ノートパソコンを開いて、またカメラの検討をしていた。

家に帰ると、食事をした。ピザを半分と、牡蠣フライを食べた。そのあと、風呂のなかでヘッセを読んだ。最近ネットで、ヘッセが人格障害者のひとりとして数えられているのを見て、すこしぎょっとした。躁鬱病であることは間違いないだろうが、あまり人格障害という気はしていなかった。しかし私はあらゆる小説家のなかでヘッセがもっとも好きであり、人格的に共通するものがあるのかもしれない。最近は、成熟してまっすぐ育った人間など、例外的なのだと何となく考えている。

夜、二十二時頃就寝。寝る前に、中古で15000円の一眼レフのレンズキットを衝動買いしそうになる。だが、やめた。

今日

朝起きても、まだ気分は良い。仕事に行った。休み明けの仕事は、少し緊張した。別段、ひさしぶりということもないのだが。なんだか気分的に脱皮したような感じだったので、何もかもが新鮮だった(車の運転でさえも)。

ただ、ひととの関係構築はあいかわらず難しいな、と思う。仕事はほとんど慣れて、無意識的に行動できるから楽だ。ただ、人間関係だけは容易にはいかない。

別の部署のひとが辞めるらしい。その部署は、私が自己愛性人格障害と認めている女性がいる部署であり、ここだけは人がコロコロ変わっている。昨日スーパーへ行ったとき、そのジコアイさんがいるのを認めた。私は驚いて、棚のあいだからちらっと確認しただけで、逃げたのだが。友人と一緒であり、いつもの嘘くさい笑い声をあげていた。この人の笑い声は、不自然だ。この人の笑い声は、「私は幸福なの」「私の人生は充実している」と、自分にも他者にも認めさせたいというような意図を感じる。言うまでもなく、そういう笑い方をする人間は、不幸なのである。

辞める人は、最近入社して、私がよく面倒を見ていた。面倒を見るといっても、私より年上なのだが、すこし虚勢を張った、気の強い感じのする中年女性だった。このひとは、ジコアイさんにすぐ潰されるだろうと思った。

「克服不可能な存在」があるのであり、ひとの心が、少なくとも今の段階では修正不可能、ということがある。気の強い人は、そういうことが分からない。私が正しいのだから、私は認められなければならない、私が正しいことを忠告すれば、ひとは改心してくれる――などという考えは、ジコアイさんには通用しないのである。(人格障害気味の私が言うのはなんだが)

私はジコアイさんに対する適切な対応は、ジコアイさんを治療するのであれば、全面的な愛情、それこそ命をかけるような情熱を持って治療に取りくむか、それができないのであれば、できるかぎり距離をおくしかないと思っている。人格障害の治療は、そのひとにとっての世界をまるまるひとつ壊して、新しく再建することである。むろんそのようなことを、ジコアイさんは恐れるし、おおいに抵抗することだろうと思う。しかしそれを乗りこえた先にしか治癒はないのである。私はそんなことをする義理はないと思っているから、距離を置くことを選択している。

しかし――その女性が辞めることになったから、私はその部署に何回か行かなければいけないことになった。憂鬱だ……。

人間関係の難しさ。私は私にうなぎ弁当を与えてくれた女性(ここでは「女史」と呼ぼう)が、いつも穏やかな人格なのだが、今日はすこしぴりぴりしていることに気づいた。それとなく聞いてみると、娘さんが受験生なのだが、あまり勉強に熱が入らなく、見るに見かねて昨日、注意したらしい。娘さん、「そのことはわかっていた」と泣きながら。それで女史に抱き着いたのだという。女史、「私はもう眠いから寝る」と。まあそういうことがあったから、すこし女史はもやもやしていたらしい。

私は、適切なときに弁当を与えてくれた女史に、ほとんど正しい感謝をできていない。女史が精神的に不安定であることにも、よく勘付かなかった。女史をいらだたせてしまったかもしれない。もっと他人に目を向けねば……。

ひとの人生に、人格に、それぞれいろんな事柄が影響し合っていることは、考えてみると壮大なことである。それぞれに歴史がある。私が見えないところで、いろいろな問題を抱え、泣いて、笑っている。私自身も、私ひとりで成り立つものではない。S以外のひとびとにも、どれだけ支えられてきたのだろうか。当たり前だが、なかなか気づけなかったことである。

仕事が終わると、公園の駐車場に停め、これを書いている。あまり本を読もうという気にならない。仕事中、ぼんやりとSと結婚したいということを考えた。それはにぎやかで、快活で、健康的な、考えうるかぎり最高の結婚生活になると思われた。しかし、Sと結婚できなくても、それはそれで良いというふうに思われた。ぜんぶ、なるようにしかならないのだろう。

2 件のコメント:

  1. うん、私もそう思う!なるようになる‼︎
    あなたの人生の物語は、これからますます面白くなっていきそうだ。

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  2.  結婚は幸せなことか、むしろ不幸なことかもしれません。ソクラテスの妻クサンティッペは悪妻として有名で、ソクラテスに「悪妻を得れば哲学者になれる。」と言わしめたことでも知られています。
     幸せとは、自由であること、思い悩むことが少ないこと、欲しいものが手に入れられること、健康に問題がないことなどあるかもしれません。しかし、結婚すれば、自分一人の幸せだけではなく、家族の幸せを心配し、生活を支える責任と無償の愛が不可欠になります。つまり、結婚は「半分以下になった幸せとそれなりの不幸」を手にするものであり、欧米では二組に一組が離婚をし、「離婚をすれば一人前」という風潮すらあるそうです。
     また、フランスでは、婚姻という制度そのものが揺らぎつつあり、パートナーという、制約のないふわっとした家族の形が築かれているそうです。

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