10.02.2016

助けを求めること

前に書いた記事で、あれこれ理由を付けているけど、結局性欲が高まっているだけなのですよ、さびしいだけなのですよ、というようなコメントをもらって、確かにそうなのかもしれないと思った。

あれこれ理由をつけてもしょうがない、単刀直入にメッセージを伝えればよい……ということを、私は最近別の事実から知った。Sがいなくなって、自分の人格に失望し、ひどく落ち込んでいたとき、あれこれ方策を考えて、自分の人格の改善を試みたのだった。ただ、さいごには私は、自分の人格を自分で矯正できるものではないことを知った。他人や社会が自分の人格をゆがめたのだから、私はこう言うだけで良かったのだ。「助けてくれ」と。

それで、私は職場の女史にうなぎ弁当をもらい、中年女性の涙をもらい、体力と気力の回復をはたしたのだ。必要なときは、助けを求めなければならないということを私は知った。それだけで良かったのだ。

考えてみると、「助けてくれ」と訴えることが、たいへん難しい社会だと思う。それでいて、助けを求めているひとは、数知れずいるのだと思う。自分で何とかしようと思って、どうにもならない人。キリスト者は神に救いを求める。神のまなざしともに人生を歩むから、独立して生きていける。日本人はキリスト者のような西洋個人主義が浸透していて、それでいて頼りになる「絶対神」もいないから、袋小路のようだと思う。

自殺とはどういうことなのか、考えてみると、これは「自分を殺す」と書くのだが、どちらかといえば「すべての他者を殺す」という意図の方が強いのではないかと思う。他人からしてみれば一人の人間が死んだだけだが、自殺者本人からすれば、自分以外のすべてを殺す行為に等しい。自殺志願者は、自分の弱さや過ちを理由にして死んでいくのだが、ほんとうのところは、弱い自分を受け入れてくれない社会に絶望して、というか憎悪を溜めこんで、究極の傷害行為に及ぶのだと思う。

子どもの自殺はまたニュアンスが違ってくる。いじめを苦にして死ぬ場合、「だれだれにいじめられたので死ぬ」と遺書に書いていたりする。つまり苦しみから逃れられないから死ぬというよりも、自分の死をもってして、いじめっ子たちの一生を台無しにしてやろうというような復讐心が見えるときがある。

同じ自殺であっても、大人よりも子どもの方がずっと素直だ。つまり自分が憎悪の感情を持っていることを、理解しているのである。一般に自殺する人間は、そもそも憎悪を認知していないことがあり、生活苦だとか、事業の失敗とか、いろいろあるけれども、そういった事柄から通じて見えてくるのは、他者や社会に対する憎悪である。

憎悪や憤怒は身を滅ぼす、ということが、ここでも言えると思う。仏教でもさんざん怒りを持つなと説いている。それでは耐えがたい出来事が起きたときにわれわれはどうすればよいのか。これはもう、悲しむしかない。怒って他人を批判しても、しょうがない。耐えがたい出来事が起こった。そうしたら、もう、ぶっ倒れればよいのだと思う。道ばたで、だれかが倒れてたら助けるでしょう。だから、もう他人や社会を信頼して、ぶっ倒れるしかない。会社が嫌だったら、携帯の電源を切って寝てしまう。学校が嫌なら、もう親になんと言われようと学校へ行かない。そうすれば絶対にだれかが助けてくれるわけだ。まあ、だれかが助けてくれなくても、つっぷして寝っ転がっていれば、なんとなく気分が晴れてくる。

自殺傾向のある人は、この行為ができないで、他人に助けを求めてはならない、と意固地になる。「助けてくれ」と言うこと、たったこれだけのことが、できないで、破滅に向かう。意固地になって過労死するまで働いてみたりする。「こんなにボロボロになっているだろ、助けてくれ」という境地である。そんなことは必要なくて、「もうしんどいので、助けてくれ」と言えばいいのに。ほとんど確実に、自殺傾向のひとは、過去にトラウマがあるに違いない。それは、「助けを求めたが、無視された」とか、「弱さにつけこまれて利用された」とか、そういう経験が繰り返され、他者や社会に対する拒絶感が学習される。

そういうわけで、なんでもひとりで抱え込んで物事に対処しようとする。よく「鬱病のひとは責任感がある」などと言うことがあるけど、この責任感は病的なもので、あまりほめられたものではないと思う。社会は不寛容で攻撃的で、生は苦しみだ、というようなスティグマが、鬱病の人間を自殺に追い込むのだと思う。

もはや自分のことなど、だれも助けてくれないのだ、と鬱病の人間は思うかもしれないが、そう思うのであれば、少しひとの多いところへいって、「あっ」と叫んで倒れてみればいいのだと思う。みんな、一生懸命になってあなたを助けてくれるでしょう。どうしたのか、どこが痛むのか、いま救急車を呼ぶぞ、しっかりしろ、もう少しだ、がんばれ、と声をかけてくれるはずだ。

私もずいぶん意固地になって生きてきたけれども、他人に救いを求めてよいのだ、ということを知って、人生がすこし明るくなってきたと思う。

鬱病のひとを批判するようなことを書いたが、私もずっと似たような考えをしていた。私も自分のことはだれも助けてくれないと思っていたし、そもそも自分は十分に強いのであり、助けなど不要だと思っていた。そうして自分に怒りや憎悪の感情が蓄積していることに、自覚がなかった。

「助けてくれ」というメッセージが、加害感情や怨恨の形をとったりするから、厄介だ。自分が本当に何をしたいと思っているのか、何を求めているのか、これを知ることは、本当に難しい。完全にできている人などいないだろう。しかし地道な努力をして、聞き取る努力をしなければいけない。

一度、本当の愛情に触れてみないと、こういったことはわからないことなのかもしれない。私のがんじがらめになった精神をほどいてくれたのは、まぎれもなくSである。……元気かな、Sは。

3 件のコメント:

  1. "All You Need Is Love"の意味が、最近になってようやくわかってきた気がします。
    人は本当の愛を受けて初めて、自分や他者を愛せるようになるのでしょうね。

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  2. 不思議なもので、「助けてほしい」って本当に言えませんね。ある程度の自己愛って必要なのだと思います。社会で上手く立ち回れる人にナルシスト気味の方が多いと思うのは、自分の価値を守ることが自然とできていて、人に頼ることも上手いからなのかなと思います。頼られると嬉しいですし、「助けて」ってもし言われたら、出来ることなら何とかしたいと思いますしね。
    「人は1人では生きていけない」とかいう当たり前すぎる事実だけを、ここにはない何かを求めてあっちへ行き、こっちへ戻りしてやっと実感できる、自分の成長の遅さにびっくりして笑えてきます。

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  3. でも、願わくば、自分は「助けてほしい」の声にならない声を感知できる人間になりたいと思います。黒崎さんのように苦しんで悩んでいる人はきっとそういうことがわかる人間なのだろうと思います。

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