10.17.2016

ポテチに依存するおじさん

ここのところ、生活がまた「悪く」なっていた。酒や煙草は辞めたが、また別のものに依存してしまっていた。それは「ポテトチップス」と「コーラ」である。

精神的に大変不安定だったときは、ほとんどみそ汁と納豆とご飯のみ、という生活をしていた。それで満足していたのだが、精神的な緊張から解放されると、糖分や油を求めるようになった。

砂糖の害悪については、いまや広く知られている。「砂糖」は、実はアメリカが覇権を握ることになった最大の要因だった。大航海時代において、最大の資本をもった勝ち組は二種類。タバコ農家と、砂糖農家だった。しかし隆盛を極めたのは砂糖農家の方であった。
「タバコ貴族」という言葉がある。ヴァージニアなどのタバコのプランターがいかに豊かだったかを示す証拠である。彼らは植民地においてイギリスのジェントルマン階級を真似た生活様式を維持し、名士として活動した。しかし、タバコ・プランターたちが「貴族的」であったというなら、カリブ海の砂糖プランターたちは「王様」であった。じっさい、イギリス西南部で、不在化してイギリスに住み着いていた砂糖プランターの馬車とすれちがった国王ジョージ三世は、そのあまりの豪華さに憤慨して、「関税はどうした、関税は」と首相ピットをなじったというエピソードも残っている。(「世界システム論講義」川北稔)
アメリカの発展は、「砂糖」と「奴隷」の両輪で成し遂げられた、というのが川北氏の云いである。我々日本人は、そういう国に負けたのである(この本は、ときどき痛烈に英米を皮肉るのでおもしろい)。

煙草にせよ、砂糖にせよ、阿片にせよ――ひとを依存させるものは、強烈な影響力をもつ。ときにその影響力が、歴史を左右することもある。

依存性のある食品を扱う産業は強力であって、ほとんど盤石と言っていい資本力を持っている。たとえば国内の食品産業を売上高で並べてみると、JT、キリン、アサヒ、サントリーと並ぶ。さらに高順位にはヤマザキパンや、コカ・コーラがある。こういう産業は、市民を依存させることで成り立っている。

ところで、私は昨日、依存とは隷属であるというようなことを書いた。奴隷的な人間は、主人を「求めている」。奴隷は主人がいないと安心できないのである。そういうひとが、主人の代替としていろんなものに依存していく。

砂糖の快楽に溺れる人が、糖尿病になり、薬なしでは生きていけない体になる。そうなると、この人は砂糖に依存し、薬に依存して生きていくことになる。製薬企業としても、砂糖ビジネスの企業としても、たいへんありがたい存在であることには違いない。

アルコール中毒から肝硬変になり、塩分中毒から高血圧になり、油分中毒から高脂血症になり、ニコチン中毒から肺がんやCOPDになる。あるいは、「他人中毒」によって不安障害を抱える。

不思議なことに、「依存」はかならず種々の病気を生むようである。しかも慢性的な……。そうしてその依存は、二次的に製薬企業を儲けさせるようである。糖尿病、肝硬変、高血圧、高脂血症、がん、精神疾患……いずれも製薬企業(というか医療産業)にとっては「ドル箱」のような領域である。依存の状態が、奴隷的であるというのはそういうことである。

一次の慰めにと思って嗜んだものが、身を滅ぼし、さらなる依存へと導かれる。人は次第に不自由になり、不健康になり、身動きがとれなくなる。仏教では、あらゆる執着(しゅうじゃく)から離れよと解かれるのだが、こういう依存から離れ、独立して生きていくことが必要なのだと私は考える。

私自身を振り返ってみると、ここのところ毎日ポテチとコーラを摂取しており……まあ、酒を飲むよりはよいだろうと考えていたのだが……結局これも依存なのだろうと思った。どうも、ポテチを食べるようになってから、精神的に降下したような気分なのである。仕事中疲れやすいし、注意が散漫になる。今日も、職場で不用意な発言をしてしまって、同僚に不快な思いをさせてしまった……。

私は関心をもっていても、特定の宗教にいれこむことはないのだが、やはり人智の及ばぬ「魂」のようなものはあると考えている。そうしてそれは、高みに昇って雲を突きぬけることもあるし、だらしなく地べたでふやけていることもあるのだと思う。

そうなると、魂をしっかりと正すにはどうすればよいかということになる。私は酒や煙草をやめてから、だいぶマシになったと思う。つぎに自慰への依存をやめて、ほんとうにこれは効果があると思った。「霊性が高まる」のである。これは、神秘主義的な表現だけど、こう表現するのがぴったりなのである。

それで次には、ポテチ、コーラ依存を脱しようと努力してみようと思った。しかしまあ、ふつうの人は何ら依存せずに生きているようであって、そのことが不思議である。私の周りのひとは、酒にもたばこにも依存せず、という人がいる。そういう人はやはり人格的に優れていることが多い。ただそういう人でもやっぱり、仕事中毒だったりするのだが……。

依存=隷属を完璧に断つことは難しい。われわれは多かれ少なかれ、隷属しているのである。国家であったり、会社であったり、家庭だったり……。健康とは、独立であり、主人的であることだと思う。俗世にあってこれを達成するのは大変難しい。

あとはカフェインも断とうかな、と考えている。不健全な状態にあるから、目が覚めないのである。魂が健康であれば、ことさらカフェインで目覚めさせる必要もないはずだ。

さて……ここまでして私は何になろうとしているのか。しまいにはあらゆる食べ物を断って、仙人にでもなるというのか。私は、なんら高尚な要求を持っていない。最近は、飛躍した目標を持つことがなくなった。いまでは「楽しく暮らしたい」と考えているだけの、ただの小市民である。

ただ、この「楽しく暮らす」ということが難しい。健康であり、明朗であり、目が開かれており、死や苦痛を恐れず、困難を克服し、日々を充実させて生きる。そんなことはフィクションの中だけで可能だ、とふつう思われているが……。霊性を高めるとは、こういう領域を目指すことである。

最近、意外だったのは仏教は「楽しく暮らす」ことを目標としていることである。つまり、何かに依存することは楽しくないのである。欲情にかられて女を抱いても虚しいし、豪華な食事をしてみてもむなしい。高級車を買っても満たされない。本当に楽しいことは、知識を得たり、他人のために尽くしたり、おだやかに自然のなかで暮らすことだったりする。そういう、ある意味であたりまえのことを仏教は説いているわけだ。この点が、仏教は哲学であり、宗教ではないと言われる所以である(日本の仏教は99%宗教だが)。

私もこの仏教的な方向を目指しているに過ぎない。「楽しく暮らす」には、悟りのようなものが必要なのだと思う。人間というのは、ただ生きるということでも困難ばかりで、やっかいな存在だと思う。

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