10.25.2016

困学の人

健康とは、こういうことなのか、と思うことしきり。

これまでの私は、ひどい病気にかかっていた。毒物ばかりを摂って、精神・肉体が疲弊しきっていた。まちがった考え方をしていた。

まあそれを学べたのは良いことだけど、これまでの人生は何だったのか?となる。

孔子の言葉で、「孔子曰、生而知之者、上也。學而知之者、次也。困而學之、又其次也。困而不學、民斯爲下矣。」とある。生まれながら知っている人が最上であり、学んで知る人は次に良い。困って学ぶ人は、その次である。困ってなお学ばない人は、最低の人間である。

私は困って学んだわけだが、「困学」のないまま生きてきたら……と思うとぞっとする。それにしても、たぶんSなどは「生而知之者」であり、生まれ育った環境で、何も疑うことなく生きてきたのだと思う。

生きて行く上でほんとうに大切な智慧、というか、基盤となる智慧とは、愛情とか、自尊心とか、自立心とか、そういった感情であり、これが全人格をほとんど規定するのではないかと思う。これらの感情がきちんと育まれるかどうかは、ほとんど家庭に依るだろう。

愛情なく育った人間は、自分が何をしたいのかわからず、「だれかの目」に従って生きることになる。常に受験エリートになることを強要された人は、社会人として独立してもエリートを志向し、親に都合のよい人間を演じてきた人は、悪い人間につけこまれ、利用されて破滅することがある。

どのように生きてみても、こういう人間は不幸であるよう運命づけられる。エリートになっても空虚だし、形式的に友達が増えても、孤独であったりする。自分がほんとうにしたいことをしていないから、当然のことだ。

ある瞬間に、彼がおそろしい絶望感に全人的に襲われるときがくる(「底つき体験」)。そのときはじめて治療の準備が整うのだろう。この瞬間、親を含めて、自分を道具的に利用してきた人間に対する「NO」を突きつけることになる。ここで精神的な脱皮とも言える現象が起きる。すなわち、自分がだれにも支配されない、独立した存在であることを学ぶのである。いわば十代の反抗期の再体験というわけだ。

自分を道具のように利用してきた人間に対する「決別」、「脱依存」によって、ひとはほんとうに目を覚ますことができる。

この世に悪が存在するとすれば、やはり人間を「モノ」のように扱うことだろう。他者を尊重せず、感情を労らない人間は、死後地獄へ行くことは間違いない。こういう人間は、人間の姿をしていても、精神的には下等動物に近い。

そういう人間に悩まされることは、自分の人生に不要だということを、学び、次には、そういう人間を見分けるしっかりとした目を持たなければならない。この世には、善人の顔をした悪人がおり、またその逆もある。そこが生のおもしろいところでもある。

また説教臭くなったが、仕事の時間が近づいたのでここまで。

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