10.27.2016

神経症と「完全なる人間」

マズローの「完全なる人間」によると、健康人の特徴は次のようになる。
1.現実の優れた認知
2.自己、他人、自然のたかめられた受容
3.たかめられた自発性
4.問題中心性の増大
5.人間関係における独立分離の増大と、プライバシーに対するたかめられた欲求
6.たかめられた自律性と、文化没入に対する抵抗
7.非常に斬新な鑑賞眼と、豊かな情緒反応
8.非常に頻繁に生ずる至高体験
9.人類との一体感の増大
10.変化をとげた(臨床家は改善されたというだろう)対人関係
11.一段と民主化された性格構造
12.非常にたかめられた創造性
13.価値体系における特定の変化
(完全なる人間/A・H・マズロー)
ただマズローによれば、健康人はずっと「動的」な存在であり、上のような静的な定義に収まるものではないという。

驕りかもしれないが、私も神経症の治療を通じて、上のような「健康人」に近づいたな、としみじみ思う。自分がこのような人間になるとは思わなかった。

なんといっても、私は自分を屈折した、病んだ人間、集団に打ち解けず、御しがたく、対人恐怖、神経症であり、アルコール、煙草、薬物……あらゆる中毒にどっぷり漬かった人間だと自分を評価していた。私は自分を「freak」だと思っていたから、まさかそこから逆転して真人間になるなどとは思いもよらなかった。

神経症とはなんだったのか。私の苦しみとは何だったのか。というところに、マズローはこう言っている。
神経症は欠乏の病と見ることができる。したがって、治療のため根本的に必要なことは、欠けているものを与えるか、それとも、患者が自分でこれをみたすことができるようにすることである。これらの供給は、他人から生ずるものであるから、通常の療法は、対人的なものでなければならない。(同書)
神経症はある欠乏に対する反応である。もちろん、どんな人間であっても欠乏は生じる。だからといってだれしもが神経症者になるわけではない。困難や渇望を感じたときに、なぜ神経症となるのか?という問いに対しては、森田ダイセンセイは「ヒポコンドリー性基調仮説」のようなものを掲げている。

つまり、遺伝的に、あるいは胎内とか、産後しばらくの時期、「神経症的な性質」が作り上げられる。この要素は、一生変わることがない。

これはスーザン・ケインも指摘していることで、たとえば赤ん坊は無垢な状態で生まれるのではなく、その段階ですでに「個性」を持っている。少なくとも、外的刺激に対する反応性は画一ではない。

産後数日の胎児を見てみよう。森田センセーの言う「ヒポコンドリー基調」の子どもは、すこしの外的刺激で泣き出してしまう。ところが外向的性質をもった子どもはケロッとして、刺激に笑い出しさえする。

だから「三つ子の魂百まで」というけど、人格の大部分は生来的なものであり、この神経症的性向はほとんどuncontrollableということになる。

極端に鋭敏な神経を持った、神経症素因の人間がどうして神経症を発症するのか。神経症のもつ「意味」とはなんなのか。それは病的で無価値な反復なのだろうか。というところで、次のような記述を見つけた。
何人かの分析者、とりわけフロムやホーナイには、神経症でさえ、成長、発達の完成、人間における可能性の実現へと向かう衝動の、歪められた姿と考えないと、理解できないことがわかってきた。(同書)
歪められているにせよ、神経症は「生長」への衝動の形、と考えることもできるのだろう。

つまり、神経症というのは「病的」なプロセスではなく、反対に「健康」へ向かうためのものだったということだ。このことは、例えば風邪による発熱や咳、鼻水が、胎内の異常に対する免疫反応であり、健康へ向かうためのものであることと同様である。

以上をまとめてみると、私は神経症によって健康人になった、と言うことができると思う。
だれに人気があるのか、若者にとって近所の紳士気取りの俗物、カントリークラブの連中となら人気のない方がましである。なにに対して適応するというのか。堕落した文化に対してであるか。支配的な親に対してであるか、よく適応した奴隷をどう考えたらよいのか。よく適応した囚人はどうか。行動問題児でさえ、寛容の精神で見直されている。なぜ非行を犯すのだろうか。大部分は病的な動機からである。だが、ときにはよい動機から出ることもあり、この場合、少年は搾取、支配、無視、屈辱、蔑視に対して抵抗しているに過ぎないのである。(同書)
とあり、マズロー節だなあと。おもしろい良い本に出会った。まだ半分も読んでないが……。




1 件のコメント:

  1. >健康人はずっと「動的」な存在であり、上のような静的な定義に収まるものではないという
    「完全なる人間」という響きが何だか不健全に聞こえるように、浮き沈みを繰り返しゆっくり安定した人間性を獲得していくのではないかという気がします。どこか欠落しているのが人間なんだろうなぁ。よく聞く台詞ですけど。
    >神経症というのは「病的」なプロセスではなく、反対に「健康」へ向かうためのものだったということだ。
    自己防衛のための過剰反応だったのかな。

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