10.31.2016

断酒会依存症

肉体・精神ともに健康になったけれどもそれから何をしてよいのかわからない。奴隷は鎖を切られてもぽかんとしている。ニーチェは「何からの自由ではなく、何への自由か」と問うた。さてどこへ向かうのか……。

まずは、ゴミ掃除……。酒を飲んでいたときは、部屋の片付けと、朝にゴミを出すことが恐ろしく苦痛だった。「私に命令するな」「それはしたくない」という気分だった。当然、ゴミは溜まっていく。するともっと酒が飲みたくなる……。

部屋からゴミをなくすことが、私にとっては一大事業であった。それがいまは簡単に処理できている。単純に、ゴミが減った。酒やコーラを飲んでいたときや、ポテチを食べていたときは、ゴミが山ほど積み重なったものだった。それが、いまはスーパーへ行っても、せいぜい納豆や豆腐を買って、あとは野菜や卵を買うくらいだから、ゴミが溜まらない。自慰をしていた頃は、そこかしこにティッシュが転がっていたのだが(汚いな)、いまはルンバを走らせてもほとんど巻き込み事故がない。

やはり、肉料理や魚料理も生活にはよくないようだ。料理をすると、油が飛び散る。嫌な臭いがする(肉食をしないとわかるが、肉が焼ける臭いって、けっこう臭い)。ゴミが腐って、嫌な匂いを放つ。動物の死体を家に入れることは、あまりよくない効果がある気がする。

ただ、いまは健康上の理由で魚をたまに摂っている。ヴィーガンなんて絶対身体によくない。ああいうのは、神経症的、教条主義的なところがある。

「断酒会」のようなものも、教条主義的であって、「節酒は無理、一滴も飲んではならない」と決めつけている。私は「依存症」から抜け出すことができれば、飲み会などの機会飲酒くらいは許してもよいと思っている。

仏教でも実は肉食を禁じていない。俗人が与えてくれたものは、なんでも食べよと言っている。これは示唆に富んでいる。もちろん日本の坊主のように、好き勝手肉食をしてよいと言っているわけではない。ようは自分から望むな、むさぼるなと言っている。私も、冷蔵庫に酒があるけど、もう飲もうとは思わない。ただ、奢ってもらえるなら飲む。

酒を飲んだからって、だれでもアル中になるわけではない。ただ、依存傾向にある人間がアル中になる。だからこの依存傾向に注意深く目を見張っていれば、自由に生活することができる。

依存傾向にある人間は、酒だけでなく、何にでも依存している。他の食べ物だったり、人間関係でもそうだし、仕事や、特定の行為に依存することもある。だから、アル中が入院して、次に依存するのは「断酒会」だったりする。断酒会に依存性があることは間違いないと私は考える。私は断酒会に参加したことはないから、あてずっぽうだが。

だからアル中が禁酒に成功したとしても、必ずしも完治と言えないことがある。酒を飲まなければ良いのではなく、自分のなかの依存的傾向を見つめ、これを断ち切ることが必要なのだろう。

見えない鎖を見つけ出すこと。自分を不自由にしているものはなにか、はっきりとすること。鎖は意外と身近な人間関係だったりするし、会社組織だったり、宗教や思想だったりすることもあると思う。ともあれ、これを見つけ出すことは容易ではない……。私も、だいぶ楽になったけど、まだ切りがないなあと感じる次第。

話がだいぶ脱線した。なんだか、何かをしたいという気がするのだが、まだ何もできていない。漫然と生活するのも、嫌だな、と考えている。

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