10.05.2016

ここにいて良かったのか

ここにいて良かったのか。

と思うこと、多々。これは不思議な感覚だ。自分が自分でいて良いという感覚。

自分はもう独立しており、だれからも支配されないのであり、足かせは消えて、自由に歩ける。

もし私を傷つけるような人間があらわれれば、「やっつけてやる」と言える心理……不思議な感覚だと思う。

このような感覚、ある意味でひととしてあたり前の、ことさら意識することのない、アプリオリな感覚を私はどこかで見失ってしまっていたようだった。私の居場所は「いま」になかった。わたしは過去に縛られていたし、他人に縛られていた。私はひとから不当に傷つけられても、声をあげなかった。それどころか、私は自分をさらに責めたものだった。私は「いい子」でなければ、生存を認められないような気がしていた。

私は無条件に愛されることがあるのだということを知らなかった。私は、自分が何か才能や長所をもっていたり、他人に有益な作用をもたらすかぎりにおいて、存在が許容されるのだろうと思っていた。私は自然のままでは存在を許されず、お世辞をいったり、金品を渡したり、笑顔をふりまいたり、気の利いたことを言えるのでなければ、他人に愛されることはないのだろうと思っていた。

それだから、私は他人とまったくうまくいかなかった。私にとって、他者はひどい負担だった。つねに道化になって、気を遣わなければならなかった。そうして、私のような「いい子」であろうとする人間には、狡猾で冷酷な人間ばかりが近づいてきた。私の人心を支配し、おもちゃのように弄したり、道具のように利用しようという人間。私はそのとおりに、道具になったりおもちゃになった。そうして、私はなんども「世界はそのようなものだ」と学習し、世界観を固定化したのだった。世界には光がなくて、地獄そのものだった。もちろん同じクラスの別のグループとか、泊まりに行った別の家族とかには、健全で愛に満ちた世界もあったのだろうが、それは並行世界のように私とは無縁だった。それはテレビドラマのように演技と虚偽の世界なのだろうと思った。

今日仕事中に、私の人生において、私を道具のように利用してきた悪魔どものことを考えて、カッカとしてしまった。私のこころを愚弄した人間が許せなかった。「人をおちょくるな!」「俺を舐めるな!」と、怒ってしまった。職場の人間は驚いたと思う。私は自分がかわいそうでならなかった。愛情を知らずに自分を封殺してきた哀れな人間。しかし、怒ってもしょうがないのであった。結局ひとを道具的に扱うひとは、道具的に扱われてきた被害者でもある。

私をだいいちに利用してきたのは、たぶん両親だろう。私は長い間、自分の家族関係をまあまあ正常なものだと思っていた。しかし、いまある程度の観察力をもって考えてみると、とことん愛のない家庭だったと思う。そのような具体例をあげることは、寂しくなることだからやめておこう。異常で、閉鎖的で、救いのない家庭だった。

私は、もう少し自分をいたわろうと思った。そうして、過去に居場所がなかったから、未来につくってあげようと思った。私はずいぶんと自然で、素直なこころになったと思う。だから、だんぜんに生きやすい気分だ。私をまた利用する人間があらわれたら、そのときは「お前の言いなりにはならない」と突っぱねてやるつもりである。

「他人と違って自分には価値がない」──この自分についての感じ方に、私は何十年と悩まされつづけた。自分が他人に相手にしてもらえるためには、自分は他人と違って特別な才能が必要である、他人と違って特別に相手に尽くさなければならない、と心の底で私は感じつづけてきた。自分は他の人と同じようには扱ってもらえないという淋しさ、孤独感が、いつも心の底にあった。神経症からなおりかけてきて、人々は「他の人と同じように自分のことを感じてくれる」と知ったことは、信じられないような驚きであった。(加藤諦三)

1 件のコメント:

  1. >過去に居場所がなかったから、未来につくってあげようと思った。

    このフレーズ最高!!

    返信削除