10.09.2016

神経症と愛情

いまになってふり返ってみると、神経症の病因は愛情不足にあるのではないかと思った。神経症の症状は雑多だが、その根底には「不安」がある。ここにいてはいけないのではないか、間違ったふるまいをしているのではないか、危害を加えられるのではないか……といった不安が、神経症者を倒錯した行為へ陥らせる。

この不安はどこからくるのか……というと、「自分は愛されるに値しない」というような感情に由来するのではないかな、と思う。たとえば、両親による愛情が限定的だった場合……。「よく言いつけを守れば」愛される、「勉強ができれば」愛される、というような、親の要求を満たせば愛情が得られる子どもだった場合……、無条件の愛が与えられる健全な家庭の子どもと比べて、「自分は正しいのだろうか」「自分は愛されるだろうか」ということに確信が持てずに、つねに自分の行為を再確認する習性がつく。

ゆえに……病的に手を洗うとか、ガスの元栓を確認するといった行為は、漠然とした不安感が、その行為に凝固されたと言ってもよいのではないかと思う。「人に嫌われたのではないか」と執着する対人恐怖症はより単純である。

ひとくちに「愛情」といっても、子どもにとって両親の愛というのは、生死にかかわる重要なものである。無力で他に頼るもののない子どもにとって、両親の愛が信頼できないことは、そのまま世界が不安定であることを意味する。愛情をそそがれた子どもは世界の認識を確固たるものにし、愛情の不十分な子どもには、世界はなにか危険なものとしてうつる。

神経症者にとって世界は不安と恐怖に満ちている。この価値観形成は、おそらく4,5歳くらいですでに達成されてしまっているのではないかと思う。こういう家庭に育って、ちいさな子どもが「俺をちゃんと愛せ」と両親に諭すことはありえないのだから、子どもが思春期を迎えるまでに、繰りかえし学習されるのだろう。神経症者は「世界は悲惨であり、恐怖と不安に満ちている」という絶望的な価値観を、くりかえし固定化される。

そうして神経症者は思春期頃から、神経症を発症する。それは本人がどう思っていようが、本人の生活を破壊する。

たぶん、ひとは学習されるもの以外に生来の感情というものがあるのだと思う。「親は無条件に子どもを愛するべきだ」という感情。もっといえば、「俺は愛されるべき存在だ」という感情がある。しかしこの感情は、生まれてからずっと否定されてきたものだ。だから、神経症者はこの内的な感情を無意識的に抑圧してしまう。

するとどうなるかと言えば、深刻な心理的な葛藤が生じる。精神のもっとも深いところで、自己が分裂しているような状態だ。その混乱が、神経症のような病的な人格を生み出す。

上記をまとめると、神経症者は幼少期に「世界は絶望的だ」ということを徹底的に学習させられる。そして思春期頃になると「世界に希望はあり、少なくとも絶望ではない」という内的感情が湧きでてくる。すると、世界認識そのものにゆがみが生じる。このぐらつきが、神経症の発症としてあらわれる。

たぶんこのあとには、神経症の克服がなされなければならないのだと思う。つまり、「世界に希望はある」という認識に確信を持つことである。

神経症の克服がたいへんむずかしいのは、世界認識、根本的な価値観をすべてくつがえす必要があるからである。いままで学習させられてきたことを捨て去って、より現実的な世界を認識しなければならない。

これを例えれば、「あなたが普段生活している世界はすべて仮想現実です。あなたはカプセルのなかで眠っていて、夢を見させられている」と言われて、それを信じられるか、というのと同じくらい難しい。いやそこまで難しくないかもしれないが、それと似たような状態に神経症者は置かれている。

「世界は危険に満ちている」「私は愛されない」という認識から、「私はそのままで、愛される」「世界は信頼に足る」という認識に移行することは、ふつうにはできることではない。一種の悟りに似た、膜をやぶるような経験が必要である。

私は患者を入院させ、えんえんと「草むしり」をさせる森田療法が、たしかに有効だと思う。これはたとえば、禅僧が弟子入りすると、何年間も掃除や使いなどの雑用をさせられることと似ている。これは都合良く使われているのではなく、精神修養のひとつなのである。

また、草むしりによって草や土に触れることは、現実認識を確固にする効果があるのではないかと思う。神経症者の世界認識は、基盤を失っているようなところがあるから、地面に触れるということは暗喩的な効果があるのではないかと思う。

話を戻そう。神経症者は愛情が欠乏している。ゆえにつねに深刻な不安をかかえて生活している。この治療にはより現実的な世界認識を持つことが必要である。あとは、両親や家庭が異常ではなかったかどうか、今一度ふり返る必要があるのではないかと思う。


3 件のコメント:

  1. 見事な見解をありがとう!その苦しみがわかる者だからこそ、ここまで深く追究できる。
    あなたは無意識かもしれないけれど、使命を全うして生きているような姿にいつも感心しています。

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  2. 本当にその通りだと思います。
    幼少の頃、特定の人からの愛情が欠如していると、根っ子がグラグラで未来に向って枝を延ばすことも葉を茂らすことも難しくなってしまうのだと思います。
    親自身もきっと、同じ様に子どもの頃ちゃんとした愛情を注がれなかったのかもしれませんね、、この連鎖を断ち切るのは難しいことですができると思います。完璧な家庭なんてどこにもなく、人はみんな成長しきれていない子どもの自分を持っていますが、その子どもに対して自分自身が良き親であるように、必要であればきちんと救いも求めなければいけないのかもしれません。

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  3.  確かに、内的な愛情欠如感による自己認識の葛藤が、神経症の根元にあるという見解は正鵠を射ていると思います。しかし、黒崎さんの場合は、確かにスタートはそのような条件付きの愛情による不安感や不安定な自己認識からくる葛藤だったのかもしれませんが、知的な欲求や心理や哲学への深い造詣は、ご自身の知的な能力によるものだと思います。
     天才的な人物や、有名な画家などにも、生涯を通して躁鬱症状に悩まされた人が多くいることなどからみても、単に家庭的な要因だけでなく、黒崎さん自身の知的な能力の高さや、成長課程における価値観形成にも関係があるかもしれませんね。

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