10.11.2016

世界旅行への疑問

仕事が終わり、駐車場へ向かうと、同僚の女史が車から出てきて、私に「会社を辞めるんですか?」と聞いた。私は今のところその予定はない、と答えた。女史は「海外旅行に行くために、辞めてしまうと噂になっている」と。私は、「以前はその願望が強かったけど、最近ではあまりその気がない」と答えた。



ここ数年くらいずっと、海外に行くことが夢だった。私は生来、好奇心が強い方だったので、いろんなところへ行くのが好きだった。また定住とか、所有があまり好きではないので、「身軽にあちこちへ移動する」ということだけでも楽しいように思われた。それで、バイクによる世界旅行をたくらんでいた。

ただ、最近は旅に出ることに意味があるのかな?と思うことがある。

昨日、天気が良かったのでバイクで出かけた。荒れた細道とか、開けた海岸沿いを走った。それから、だれも通らないような山間の林道で、ウィリー走行の練習をした。それは何時間にも及んだ。だんだん、コツをつかんでいくのが楽しくて仕方がなかった。最初は前輪がぴくりとも浮かなかったのである。それが、今は自分の顔くらいまで前輪があがる。なんどもなんども繰り返した。エンジンが熱をもって、クラッチが焼けるような臭いがした。私も全身汗だくになって、筋肉が痛んだ。でもバイクはこんな風にも操れるのか、と楽しくなって、最後には歌いだしたりした。

ウィリーの練習が楽しい。とはいっても、このような練習にたいした意味があるわけではない。だれかに見せるわけではないし、だれかに褒められるわけではない。金を稼げるわけではないし、女にモテることもない。せいぜい、林道で倒木を乗り越えられるくらい。

しかし、単純に楽しい……こんなに楽しんだのは久しぶりだった。私は自分のしたいことを、ほんとうに久しぶりにしたような気がした。

海外旅行は、少しこうしたニュアンスとは違う。なんだかそれは、理性的な判断のように思われるのである。「俺は何十か国旅した」という事実は、一種の「資格」に近い。飲み会で話せばウケるだろうし、就職活動で役立つかもしれない(社風によるが)。女にも一目置かれるだろう(主にサブカル系の)。大学時代に行った旅行先では、そういった効果を狙って旅行している人が、たしかに多かった。必ずしもその旅を楽しんでいるわけではなかった。

バブル期の家族は、みな強迫的に「レジャー」を楽しんだ、と筒井康隆が書いていた。何時間も渋滞につかまり、わざわざ高い金を払って人のごった返すプールや遊園地やキャンプ場で遊び、そしてまた渋滞につかまりながら帰宅する。なにが彼らを駆り立てるのか?それは「この休日は○○へ行った」という事実なのである。

われわれが、「人に認められたい」「このような人間だと思われたい」と願うエネルギーは、すさまじいものがある。偉い人だとか、聡明だとか、優しい人、まじめ、いろいろあるだろうが、そのように思われたいがために、他人に見栄をはる。嘘をつく。そしてひどいときになると、自分にまで嘘をつく。先の例で言えば、くだらないレジャーで消耗している人間のほとんどは、「ああ、楽しい休日だった」と思っているのである。「自分はこのような人間なのだ」と思うことが、ぜんぜん違っていることがある。自分へのイメージ像が、「こうありたい」と願う自分だったりする。たちの悪い親は、「あなたのためを思っている」と言っても、ほんとうは自分のため、ということがある。

こうした自分への嘘は、無知、愚昧、迷妄であり、結局のところ不幸の原因としかならない。壁にぶちあたって苦しみもがくことができればまだ良いほうで(正しい認識に導かれるから)、一生牢獄のなかのように、世界を皮相的にしか認識することができないまま死ぬひともいる(むしろ多数派かも)。
無知は、空気すら入れない密閉された器のようなものである。魂は、無知の中に閉じ込められた鳥のようである。鳥はさえずることもできず、一本の羽すら動かせない。魂は無言の歌手のように黙々とたたずみ、無知に見切りをつけなければ死んでしまう。(「沈黙の声」ブラヴァツキー)
話が長くなったが、自分はほんとうに海外に出たいのか?と最近は疑問を持っている。もっとも、旅は純粋に魅力的だと思っている。ただ、今の生活を捨ててまでするのか?と考える。今の生活は、案外楽しいのである。

だれも知らないような田舎の小企業、社員も数十人で、あまり学歴の高い人はいないけど、レベルの高い仕事をこなす人や、まじめな人、やさしい人、さまざまおり、そうした人間と深く付き合っていくことと、世界のあちこちを旅行すること、どちらがよい智慧になるのか?ということを考えるのである。いくら海外旅行の経験を積んだひとでも、卑しく、くだらない人間はいる。「世界旅行者」なんて自称して、ただの見栄っぱりだったり、卑俗な楽しみしか知らない人はたくさんいるように思われる。

私の場合はとくに、旅をしたいという感情が強迫的だったと思う。世界中を旅行すれば、自分に箔がつく。いろんな知識、経験を得ることができる……切符の買い方、露店のTシャツの値切り方、安宿で荷物を守る方法、ドラッグ売買人のかわし方……。それに加えて、いろんな形での称賛……「大変だったろう」「すごい決断だね」「勇気があるね」「そんな経験がある人は、ぼくの周りにはいないよ」。しかしそんなものが何になるのかな、と思うこと多々。私は最近まで、ひととろくに心を開いて話すことができなかった。そんな人間が海外へ行って、何になっただろうか。ただ物見遊山して終わりである。

身近なところに世界はあって、宇宙もあるんではないかな、と考える。恋愛なんて特にそうで、たったひとりの女との関係が、宇宙全体を支配するということがある。

ペソアの一言が頭にずっと残っていて、結局これが正しかったのかな、と。
想像すれば、私には見える。わざわざ旅などして、それ以上なにをするというのか。感じるために移動しなければならないのは、想像力が極度に脆弱な人間だけだろう。(「不穏の書、断章」)
もちろん、自分の神経症的な性向が治っているいまだから旅行を楽しめるということはあると思うけど。女史がほとんど泣きそうな顔をしていたし、いろんな人間関係に折り合いがついてもいないので、もう少し待ってみようかな、と思っている。何より、いまの職場は待遇がいいし、少しハードな仕事も、もう慣れ切ってしまって、楽にこなせるのである……。安逸と言えば安逸で、昔の私がいまの自分を見たら、「満足した豚」に見えるのだろうが。


3 件のコメント:

  1. いまの仕事を一生続けるつもりはなく、また、いずれは家庭を持ちたいと思っているのなら、「今」行くことをお勧めします。
    次に行きたいと思ったときに、あなたが健康であるとは限らない。お金がなくなっているかもしれないし、仕事を辞められる状況じゃないかもしれない。
    明日が必ず来るなんて保証はどこにもないのだから…。

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  2. たぶん、そうだと思います。世界一周したって人生観なんてたいして変わらないでし、思い描いている期待なんて全く起らない。でも、敢えて、行くか行かないか迷ったら行く。やるかやらないか迷ったらやる。伝えるか伝えないか迷ったら伝える。シンプルに向いている方が前。
    もちろん、どっちみち後悔はするのですけど、、

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  3. 旅に出たところで、たいしたことはないと思うんです。ただ、国内に居続けたとしても、たいしたことはない、と。複雑な気分ですね。とりあえず、休みを利用して小旅行でもしてみようかなと思います。

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