10.16.2016

Coniine

学問的な知識と違って、もっと広く全般的な知識がある。それがどのように身につけられるのかわからない。教育によって身につく、と考えるのが自然だが、宗教的に考えれば「前世」ということになるのかもしれない。

その全般的な知識を身につけているひとは、何が正しく、何が間違っているかを知ることができる。それはニーチェが対比したところの、「よい悪い」と「善悪」の違いと似ている。「人間と人間の間にはひとつの位階秩序があり、したがって道徳と道徳のあいだにもそれが存する(「善悪の彼岸」)」。「よい悪い」と「善悪」の対比は、「主人道徳」と「奴隷道徳」がそれに対応する。

奴隷道徳とは、外から与えられるものであり、不健康さ、無力さ、受動性を肯定するものである。それは文字通り、よき奴隷を生みだすのに役立つ。

ニーチェはキリスト教を批判したけれども、本来的なキリスト教を批判したわけではない。宗教が政治に組み込まれると権力に都合よくゆがめられるというのは往々にしてあることである。そういう都合のいいドグマに、都合よく踊らされているキリスト者が、ニーチェには我慢できなかったのだと思う。国家神道を批判する人があっても、自然宗教としての神道を批判する人がいないのと同じ。

「よい悪い」を基準とする主人道徳は、まず前提に自己肯定がある。「自分は高貴であり、正しい存在」という芯があり、それがゆえに外から与えられる基準は不要である。だから「それは悪い」「それは良い」と、ほとんど無根拠に規定することができる。

ニーチェがソクラテス以前のギリシャ人を好んだのは、この「無根拠さ」にあるのだろう。つまり、ソクラテスはなんでも説明したがるのである。「それは間違っている。なぜなら~」といった風に。プラトンの本を読めばわかるが、まあ恐ろしく理屈っぽい。ほとんど詭弁のようなところもある。

ソフィストたちによって、ソクラテスは「悪い」と断罪された。青少年をたぶらかした罪で、ソクラテスはドクニンジンを飲まされた。それは、現代の価値観からすれば、非合理的ではある。「善悪」の基準からすれば、不当な罪を下した、ということになるのだろう。ただ私は「ソクラテスは死刑に値する」としたアテナイの500人の気持ちがなんとなくわかる気がする。それは「論破されたことの逆恨み」というよりも、やはりソクラテスは若者を論理の力によって、「よくない」方向へ導こうとしていた、と考えることができるからである。

論理は道具であるのだが、しだいに人間が論理の道具になっていく。無根拠の「良い」「悪い」は、論理的判断によって隅に追いやられてしまう。そうなると、無根拠の自己肯定もなくなっていく。ひとは主人的状態から、奴隷的状態に陥ってしまう。

現代においてもプラトンの影響は根強いのであって、「私はそれをする、それが良いと思われるから」というような、主人的な考え方ができる人は少数だと思われる。我々はふつう、何をするにしても「私はそれをする、なぜなら~~」と理由づけていると思う。これが理性主義である。

神経症者は、つねに後者の原理によって行動する。合理的、打算的なのである。たとえば私が高校生のとき、野球部の友人が高卒で働くことになったのを知ったときに、「あれほど大変な練習をしたにも関わらず、結局はなんの意味もなかったではないか」という風なことを別の友人に話したことがある。しかし少なくとも高校生活では、彼の方がずっと幸福な人生を歩んでいたのである。

このような合理的な判断をする神経症者だが、その症状はというと、反対にきわめて非合理的である。一度ガスの元栓を閉めたのに、仕事中にそれが気になってふたたび確認してしまう。ばい菌などほとんどいないだろうに、何度も手を洗ってしまう。

この非合理的行動は、「奴隷的自我」によって抑えつけられた、「主人的自我」の漏出というふうに考えられなくもないと思う。これは何度か指摘した、神経症者の内的な分裂ということになる。

まあここで上のことを繋げると、理性=奴隷=神経症ということになり、無根拠性=主人=健常者ということになる……少し無理がある気がするが、なんとなく正しいという気もする。

最初に述べたようにある個人が生育して主人的になるか、奴隷的になるか、という問題は、たぶん教育によるものなのだと思う。主人的な人間からは、主人的な人間が生まれ、奴隷的な家庭からは奴隷が生まれる。現代は何人も平等だとされるが、社会的階層は依然分かれているものである。それは単に年収や社会的地位を意味するのではなく、精神的な位階のレベルで。

奴隷的な人間は、つねに何かがないと生きていけない。奴隷は主人を必要とするのである。ただ現代では奴隷も「市民」であるので、残念ながら主人がいるわけではない。だから奴隷は偶像崇拝のように、主人を創造する。それは異性であったり、金だったり、アルコールだったり、上に述べたように「論理」が彼の主人だったりするのだが、ともあれ奴隷はそのようにして自己を満足させる。

神経症者に必要なのは、理性主義の解体ということができるかもしれない。まただいぶ飛躍したが……。

3 件のコメント:

  1.  話は大分逸れるかもしれませんが、今回の黒崎さんの記事を読みながら、何故人間は科学や哲学によって自らの世界や自分自身を認識したり、作り替えようとするのかということを考えました。奴隷とは、外から与えられる役割に受動的に反応していて、自ら世界と向き合わない訳ですが、物質的な幸福や、安定した生活は得られる可能性があるという意味では、労働者もまたその枠組みに組み込まれていると考えられなくもないわけです。
     では、何故一部の人間はそのような状態を不満に思うのか?という疑問がわくのです。獣や植物は、生存するための本能に従って生きているので、本能の奴隷です。しかし獣も植物もそのような生き方に疑問があるようには一見見えません。ところが、人間にはそういった生きるための本能以外にも、善悪や理性、自由と奴隷、権利と義務、科学と自然、幸福と不幸など様々なカテゴリから世界を規定しようとするわけです。そして、より良い生き方、より幸福な生き方など自らの認識に従って生存状態にランク付けをしています。これは本当に不思議な特徴ではないでしょうか?
     

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  2. それにしてもあなたの頭の中にはいったいどれほどの知識が詰まっているんでしょう!!
    内容とは関係ないのですが…私にはいつも思うことがあります。
    あなたの発想や文章は、お世辞抜きで本当に面白いです。それを読む(受信)だけでも十分楽しいのですが、もっとコメント(発信)したくなることがよくあります。でも、うまく伝えたい事を文章にできなかったり、時間がなかったりで、諦めることが多々あります。同じような読者の方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。
    私はそれが「もったいない」と思っています。ブログには、相手が見えないからこその利点もありますが、投稿者側は発信ばかりで受信する機会が少なく、バランスが悪くなります。あなたの考えがユニークで面白いからこそ、どんどん外に発信し、また受信しやすい環境にあれば、もっといろんな発見があるのではないかと思うのです。その環境とはやはり、リアルに人と対面で会話することなのかなぁ?
    とにかく、あなたの考えをここに書くだけでは「実にもったいない!!」と言いたいです。
    でも、ブロクの更新はこれからも楽しみにしています(笑)

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  3. >「前世」 主人道徳  自己肯定 無根拠性=主人=健常者 
    客観、主観両方において「限りなく自然」であることなのかなぁ。

    >「奴隷的自我」によって抑えつけられた、「主人的自我」の漏出
    「不自然さ」を通り越してもう苦しいです。

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