11.13.2016

酔っ払いおじさん

今日は職場のひとびとが私の誕生日を祝ってくれたので(実際の誕生日はかなりずれているが)、酒を飲むことになった。

酒を飲むと、音楽はより質量をもって感じられるし、ひととの会話も円滑になる。酒を飲むと、少しばかりの楽観と、自由が感じられる。そのあとには、苦悩とか、孤独とか、絶望の重苦しい感じが、じっと腹部を攻め立てるようだ。いわば人生の「ひだ」を感じられるような気がするのだが、そうではないだろうか。ざらざらとした質感。私は何度かこう言ってきた。「コーヒーは夢を与え、酒は現実を与える」。私にとって、酒が与えるものは蒙昧というよりは精細であって、重力による四肢の重みをよりいっそう引き立てる。人間にとって耐えがたいストレスは「苦痛」ではなく「無感覚」である。愛情の反対が無関心であるように、快楽の反対は無感覚なのである。バイロンは、「人は、合理的存在として、酔わずにはいられない。酩酊こそが人生の最良の部分である」と言った。酩酊が人間には必要なのかもしれない?それはある種の苦しみすら、人間は必要とするということである。

酒を飲むと、生命を消費している感じがある。生命を代償に何かを得る。われわれにとって、生命は目的か、手段か。「楽しみなくして、長生きして何になる」と人はいう。何かの作品を残すことは、永遠を意味する。芸術は、陶酔がなければなしえない。芸術は、生命の否定であるという気がする。

幸福を、果たして求めるべきなのだろうか。幸福者には、人生のひだは感じられない。重苦しい孤独の苦しみはないし、よく周囲を整備して、摩擦なく生きることを志向する。そこには感動がない。

酒を飲むと、自分が絶対の孤独であることを痛感する。孤独にある人間は、理想を追求する。理想とは、どこか遠く、ということだ。

陶酔は何かを見えなくするのだろうか?それとも見えない何かを見させるのだろうか?

自分にアルコールを禁じて三ヶ月、ひさびさに酒を飲んだ私の感想は、「酒は違う世界を見せてくれる」ということである。私はエタノールが血液脳関門を通過し大脳皮質に浸潤するに従って、昔のアル中のようだった私が、旧い友人のように挨拶するのを感じることができた。それはどこかへ置いてきた私の半身であった。ディオニュソス的な自己であった。

私は、この自己の半身を捨てるべきなのだろうか?彼は平常の私よりも、ずっと狂っているし、病んでいるし、強烈であるように思われた。彼は逸脱していた。なにかを組み立てるより、激情により破壊する方だった。

私のなかに、破滅的な自己があり、反対には、幸福を求める健康な自己がある。酒を飲むと、破滅的な自己があらわれる。幸福な自己は、破滅的な自己に拒絶感を抱くと同時に魅力を感じる。平凡な人間が、ゴッホの絵に並々ならぬ感心を抱くのと同様である。

酒をしばらく辞めれば、この半身は鳴りを潜める。私は健康な自己を楽しむ。他者と調和し、笑顔で、つやのある肌をしている。しかし、ディオニュソス的な半身は消えることがない。

酒との関わりをどうするべきだろうか?酒が私を破壊するとしても、それが不幸なのだろうか?私は健康人として陶酔なく生きていくとして、それが幸福なのだろうか。

まあ酔っ払った頭では飲酒に肯定的にならざるを得ないだろうとは思う。ひさしぶりの酒は、故郷へ導いてくれたような気分なのである。酒を飲まないことが、霊性を高めるのだろうか?仏陀は「肉食を禁じるからバラモンなのではない」と言った。

ともあれ、明日からまた禁酒しよう。

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