11.27.2016

おじさんの沈黙

ここしばらく何も書いていなかった。ブログの更新はしなかったし、かといって書籍の執筆をしていたわけでもない。私の生活から「書く」という習慣がなくなることは、久しぶりのことだった。

別に怠惰でサボっていたわけではない。こう毎日書いていると、「書かない」ということがちょっとした挑戦になる。そわそわして落ち着かないし、知能が低下して馬鹿になるのではないか、という不安もわいてくる。それでも書かなかったのは、日常のちょっとした変化が必要だと思ったからだ。

行為のなかから離れて、遠くから吟味する。客観視と、反省が必要だったのだ。ちょっと勇気を出して、過去に自分の書いた文章を読んでみると、ひどい誤りと、逸脱だらけだというように感じた。それは着地したラグビーボールがあちこちに飛び跳ねるように無軌道だった。まあパトスのようなものはあるけど、勃起した陰茎のように落ち着きのない文章だな、というふうに感じる。エネルギーをどう使えばよいのかわからなかったのだろう。

しかし寛容に見れば、若さとは無軌道であるから、25,6の年齢でそういう文章ばかり書くことはある意味で正しいのかもしれない。私は人生の最盛期を終えて、もうおじさんとなっている。エネルギーは落ち着いてきた。秋がやってきたのである。

今読み返してみると、このような勃起した陰茎のような文章をさらけ出すことはほとんど犯罪に近いのではないかと思う。法が許さなくても倫理的にどうなのかという気がする。そういう逸脱が許される時代はたしかにあった。近代ぐらいに、人間の愚劣さ、卑俗さ、醜さをあけっぴろげにすることが楽しい時期があった。それは「小説」などの媒体によってちょっとしたブームになった。なぜだか陰茎を晒すことが実存的だと思われた時代があったのである。

しかしまあ現代ニッポンにおいても陰茎を見たいという人間がいるわけで、汚いもの、恐ろしいもの、そういうゲテモノ的な趣味を持つ人は、私のブログのような文章を好むのかもしれない。私のブログは、男性の股ぐらにある陰茎よりも優れて陰茎である。ようはグロテスクなのだと思う。それで、まどろっこしい。動揺させる、不快にさせる、未解決の存在である。愚かさと、生命力。

図らずもペニスの話ばかりになってしまった。

私のブログは、何も生み出していない。少なくとも、物質的・経済的な意味では生産的ではない。私はもっとお金が欲しいと思う。ブログをしばらく休んで、書籍を執筆しようと目論んだのはそういう事情による。



最近、また心理学の勉強をしている。アドラーの本を読んでいると、こういう記述があった。
人生の三つの課題は、なんとかしてすべての人間が解決しなければならないものである。個人の世界との関係は三重のものであり、だれも交友、仕事、セックスという課題に対して一定の答えをしないわけにはいかない。友人を作ることが出来、自信と勇気をもって有用な仕事をすることができ、さらに性生活をよき共同体感覚と一致したものにすることができるのであれば、神経症にならずに済む。しかし、これらの三つの課題のうち一つ、あるいは、それ以上の人生の要求に自分を適応させることができないときには、貶められたという感覚、および、それに伴う神経症に用心しなければならない。(「人はなぜ神経症になるのか」)
友情、仕事、性交、アドラーはこの3つを人生の求めるべき目標としている。

私は性交においては満足できていないが、友情や仕事については、最近ようやく満足いくものになってきた。とくに友情については、職場の人間と良好な関係を築けているから、不満がない(自分が持続的に他人と良好な関係を築くことは、少し前の私には信じられないことだった)。仕事は、少しルーチンで退屈だということを除けば、待遇は良いし、やりがいもそれなりにある。ありがたいことは労働時間が8時間ぽっきりということだ(これはほんとうに8時間ぽっきりで、私は出勤時間のたいてい2分前に出勤し、用事があれば退勤時間ぴったりに帰っている)。

仕事という面で、一定の収入があることは良いのだが、産業革命以降爆発的に広まった「雇用」という形態は、決して人間にとって自然なものではないと思う。トマトの種を植えて、育てて、収穫し、それを一個100円で売る。そういう金の稼ぎ方の方がずっと自然であるように思われる。これは農家になることを推奨しているのではない。結局、どうやっても利潤を得るのは経営者や役員であり、その意味では非雇用者は永遠に搾取される存在である(最近のスマホゲームの傾向が、冒険やロマンスではなく、農耕に近くなっているのはそういう事情のせいなのかもしれない)。

まあ非雇用者であることは気楽ではあるけれども、好ましくない、というふうに考えている。そうだから受動的な非雇用者でありつつも、金を主体的に獲得していきたいと私は思っているのである。

仕事の面を充実させることが、私の神経症をさらに治療していく上で重要だと思う。だからまあ、「著述家は不幸な天職」と言われるけれども、なんとか本を一冊仕上げてみたい、と思っているのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿