11.06.2016

おじさんの余暇

どうも落ち着かない、妙な感じ。休日だし、自由ではあるのだが、何もする気が起きない。だらだら寝そべっている。本音を言えば、セックスがしたいし、酒を飲みたいし、金が欲しいという衝動はあるのだが、めんどくさいので、そのままで過ごしている。

金を稼ぐよりも、ずっと知識を身につけることが重要だという気がしているが、しかし知識を身につけたところで、行動しなければ意味がないというふうにも考える。それで、行動とは何なのか、というところでつまづいている。

思うままに行動すればよいのだろうけど、いかんせん田舎ではすることがない。退屈である。金はたくさんあるのだけど、使い道がない。これまでは、ちょっと高いワインを買ったり、良いチーズを買うという、楽しい消費活動があった。こういうものが一切ない。財布のなかの金が減らない。

高給取りになってよかったのは、本を買うときに一切躊躇しないということだ。二千円、三千円くらいでは、何も考えずに買ってしまう。私は古書や専門書は読まないので、高くても五、六千円くらいで済む。

大学生のときは、仕送りが月に家賃を入れて七万円しかなく、バイトも時給九百円程度だった。そういう自分にとって、世界は暗く冷たいものだった。服屋も、飯屋も、私をとことんしぼりとろうとする悪魔的なものにしか見えなかった。なぜこの不味い居酒屋が、私から四千円も収奪するのか?この何回か洗えばダメになってしまうTシャツが、三千円もするのか?ラーメンが一杯千円だと?

金がないということが、不幸であることには違いない。ただ、これも一面的な事実であって、金がなくても幸福な人間はたくさんいるだろう。私の通っていた大学は裕福な学生が多かったが、貧乏人もたくさんいた。私はそういう人間とばかりつるんでいた。月に三十万円の仕送りだとか、二十歳の誕生日に新車の外車をもらったとか、そういう話を聞く度に、学食で豚汁ライス(170円)の昼食をとっている自分は社会の縦構造を学んでいった。

金がないときは、金があることがうらやましくて仕方がなかった。金があればできることは山ほどあると思った。一回一万円のブルーノートのライブに頻繁にいったり、数十万円のヴィンテージ家具とか、かっこいい外車が買えるものと思っていた。

しかし、社会人になって、衣類はだんだん買わなくなったし、外食もほとんどしなくなった。あまりライブに行こうという気にはならないし、家具や車のようなものは、所有への忌避感から遠ざけてしまっている。

所有への忌避感……なんだか、高価なものを買うと、それが「もったいない」ような気持ちになってしまう。私はやはり、定住というより放浪が向いているように思う。部屋に数十万円のものがあったり、車庫に数百万円のものがあると、気になって眠りを害する。

ただ私は、いずれポルシェのケイマンを買おうと思っている。そしてそれを十年以上乗ろうと思っている。ベンツとかレクサスは、十年経てばデザインがすぐに陳腐化するが、ポルシェは飽きがこないという気がするからである。でも、日本は税金が高いから嫌だという気もしている。

金は貯まる一方であり、生活の不安はなくなった。この前、税金を滞納していたおかげで、通帳に「サシオサエ」という馴染みのない文字が入っていた。それで10万円以上持って行かれたのだが、そんなものか、という気分だった。「10万円程度」ではびくつかないのである。かつては二ヶ月分の生活費だったが……。

私は世間的に言えば、まずまずの成功者であり、二十代後半にしては、人に言えない給料をもらっていることになる。金はないよりあった方が良い、ということは確かだと思う。生活のゆとりが違うから。

神経症が治療されたのも、いくらかは生活のゆとりが生まれたことと関係しているのだと思う。もちろん、社会的に成功した人間のなかにも神経症者は多い……(普通のひとより多いかも知れない)。だから、一要因でしかないだろうとは思うのだが。

年収600万円以上であれば、幸福度はほとんど変わらないという調査があるらしい。世間一般で言えば、年収1000万円を超えるのは大企業の中間管理職であるから、高給取りはそれだけ責任と労務に追われることになる。逆に平社員が30~40歳になれば年収600万円くらいにはなるだろうから、そういう出世コースから外れた人間の幸福度と、エリートの幸福度はあまり変わらないということだろう。

あとは社会階層も関係しているのかもしれない。年収1000万円を越すと、上流の最下層になると思う。年収600万円は中流の上位に位置する。後者の方が気楽であることは想像できる。

仕事に充実を見いだすのは、悪いことではないと思う。単純に言って、ひとは何か作業をしたいと望む生き物であって、未完成の仕事を見つけると、それを完成させずにはいられない。私も、仕事をしている間はいい気晴らしになる、というように考えている。慣れてくると、子どものときに砂場で遊んでいたのと、仕事をこなすことは、あまり変わらなくなった。

なんといっても、仕事が八時間で終わるというのがありがたい。残業はたまに三十分程度あるが、めんどうであれば明日にまわして帰ってしまう、ということができる。残業があるような企業であれば、私は就職していなかっただろう。やはり余暇の時間が重要であって、生活のための金を稼ぐことよりも、知識を身につけることが私は好きなのである。

いまは仕事が終わって、二、三時間本を読むという生活だ。少し、読書の時間が少ないのかもしれない。昔のように、熱中して本を読むことがなくなった。難解な哲学書を読もうという気も、あまり起きない。

話がもどってきた。それだから、余暇の使い方という点で困っているのだった。あまり読書をしようという気がないから、何をしてよいかわからない。気ままに楽器の演奏をしたり、バイクを乗り回したり、というのも楽しいのだけど、もっと人と関わるようなことがしたい、と考えるようになってきている。酒を飲んだり、飯を食べたり……。友人とか、知人というような人間が欲しい。

私のような人間でも、いまさら「リア充」になるということがあるのかもしれない。「若干の者は、青春のはじめから老人だ。しかし、かれらが遅くなってから青春をつかめば、その青春は長持ちする」とツァラトゥストラが言っていたが。

いま思いついたのだが、あまり暇なので、近所の山にでも登ってみようと思う。

1 件のコメント:

  1. 黒崎さんはクリエイティブなことを通して人と関われればきっと充足感が得られる様な気がします。
    ブログの文章もそこらへんで読む本よりずっと面白いし、本になったらいいなぁと勝手に思います。私は買うと思います。もう、構想の中にあるのかもしれませんが。

    返信削除