12.20.2016

構造における主人の透明化

現今の支配者層が「平等」を広めようとするのはなぜなのだろうと考えた。人種平等だとか男女平等、障害者の平等、ゲイやレズの平等。メディアや教育によってこれらは説かれるわけだ。

一見平等の概念は支配者層にとって不利に思われる。支配―非支配の関係は究極的な不平等関係だからである。

かつて権力は単純な三角形構造だった。上位に君主があり、最下層に領民がある。領民は、権威的象徴の存在を意識していた。領民と君主は共同体の構成単位としては同等のものだった。つまり領民がいなければ君主はなりたたないし、君主がいなければ領民は成り立たなかった。こういう共依存的な関係があった。

現代の権力構造はこういう封建モデルではなくなったようである。つまり君主が見えなくなった。我々の生活のどこを探しても、君主はいないように思われる。平等主義的市民社会においては、我々自身が君主である。我々は我々の「自由意志」によって、国家的改革をなし得ると考えている。国家権力を握るのは我々と同じ市民だし、我々が選出するのである。だれもがそういう風に学校で教えられる。

平等主義=民主主義的な世界構造では、支配者は存在しないかのように扱われる。ただ実際には、富を独占し我々を家畜のように扱う支配者層が存在するようである(ここの証明が、難しいのだけど)。

支配構造が視認できず、ひとびとの意識にのぼりもしないということと、非支配層と支配層の存在比が極度に偏ることが合わさると、そこに理想に極めて近い擬似的な「平等」が誕生する。つまり我々の99.99%は実のところ奴隷なのだが、そういう社会においては奴隷的な立場が「ふつうのライフスタイル」となる。

奴隷はひとつの階層にあるから平等である。このことの意味は、国会議員とニートが平等であり、大企業の役員とコジキが平等ということである。もちろん奴隷のなかで地位の上下はあるが、支配者層に従属するという奴隷の定義からすれば、彼らは「超えられない壁」によって非支配者層という区分にひとくくりにされる。

歴史とは、この支配構造の完成へ向かう道と考えることができるかもしれない。つまり奴隷制の完成である。奴隷が「私は奴隷ではなく主人だ」と考えるとしたら、これほど愉快なことはない。こういう奴隷は主人に反逆することなど間違っても考えないからである。そもそも奴隷からは、主人が見えていないのだが。

この世界において封建的な統治が撲滅されんとしているのは、旧来的な統治システムを、新規で洗練された統治システムが飲み込もうとしている過程と考えることができる。かつてナチスや日本がこれに反抗した。今はロシアや中国、中東諸国が抵抗しているのかもしれない?

いずれにせよ封建主義は「過去のもの」になり、全世界に「平等な社会」が誕生することは想像に難くない。支配者はますます少数になり、非支配者は莫大な富を彼らに献上するだろう。

かくして、奴隷は自由になり、平等となり、主人は不在となった。これが現代社会の支配構造と思われる。

2 件のコメント:

  1.  何故、権力者が自らの権力を誇示しないのかということについては、「ホリエモン」を見ればわかるように、人間には嫉妬や妬み、成り上がりに対する嫌悪感などの感情があり、いらぬ闘争を避けようとする心理が働いてのことではないでしょうか?
     特に銃社会の欧米国では、生命の危機という直接的なリスクがあるため、そういう側面には注意を払っていると思われます。
     次に奴隷的な地位に甘んじて、それを平等と感じている階層については、そうすることで、自らの会社に対する誠意や献身を示すわけで、一種の社交術です。職場を変えたい最も大きな理由が人間関係であることからも、この人付き合いにかかわる部分はかなり多くの人がストレスを感じている部分でもあります。
     ストレスを感じなくなるための方法は、そのストレスを回避するか、ストレスを感じなくなるかしかないわけで、職場にいる以上、回避することが難しいので、あえて受け入れ、ストレスを感じなくなるように努めていると思われます。

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  2. 権力者の存在の透明化もそうですが、ここでは権力のはたらきの透明化が問題です。つまりわれわれの「自由意志」において、権力がどのように働いているのかが不可視なのです。「この仕事を終えないと上司に怒られる」というときに上司は権力者であり、また権力のはたらきは明らかなのですが、例えば田舎のだれもいない交差点で「信号無視をせずに止まる」という選択をするときに、どのような権力が働いているか?これは複雑です。警察の取締りに合う不安かもしれませんが、近所の目かもしれないし学校の道徳教育が要因かもしれない。学校の教育が原因だとすれば、文科省のような教育機関が権力者として働いているのでしょうか。「俺が信号で止まるのは、文科省のせいだ」と言うことができるでしょうか。事態はもっと複雑でこんがらがっているわけです。われわれは権力のはたらきに普通は気づきませんし、気づいたところで主人はどこにも見当たらないのです。

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