12.22.2016

無職を目指すおじさん

衒学的なことを書くのは辞めようと思ったのだが、また小賢しい記事を書いてしまった^^

こういうことを書くのは、仕事のストレスが強いからである。いわば現実逃避の自慰行為に近い。「まあまあ高年収+楽な仕事」として今の職場を気に入っていたのだが、さいきん人手が足りなくって、あまりに疲れるし、私が高収入だとしても、経営者は絶対的に私より稼いでいるわけで、無教養で下品な糖尿病夫妻のために私の労働を捧げるのは「プライドが許せない」という気分になった。

具体的な金額を初めて打ち明けるのだが、私は今、年収650万円で働いている。家賃手当と通勤手当を合わせれば700万円は越える。「年収偏差値」というサイトで調べると、28歳で年収650万円は偏差値91.7と出る^^

ただ、ぜんぜん足りないのが実際である。私は年俸制なので、月に手取りで45万円くらい入る。これが多いかどうかは、人によるだろうが、私からすれば雀の涙。貯金数百万円で何ができるっていうんだろう。

労働者は奴隷である……。このことにしばらく気づかなかった。大学の研究は夜が明けるまで続けても楽しいのだけど、職場では18時になるとさっさと帰りたくなるのはなぜなのか、と考えることがあった。結局自主的に仕事をこなすか、他律的に動くかの違いだろう。人は自分のしたいこと、自分のためのことならいくらでもできる。あるいは困った人を助けることも夢中になれるだろう。しかし他人が儲けるために自己を犠牲にすることは、「魂を損なう」行為である。
労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され…(中略)…だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。労働していないとき、彼は家庭にいるように安らぎ、労働しているとき、彼はそうした安らぎをもたない。だから彼の労働は、自発的なものではなくて強いられたものであり、強制労働である。…(中略)…外的な労働、人間がその中で自己を外化する労働は、自己犠牲の、自己を苦しめる労働である。(「経済学・哲学草稿」マルクス)
あまりにも当然の事実だと思うのだが、最近までこのことを認識できなかった。教育の洗脳が強かったのだろうし、飲酒や悪習慣の日々で頭が麻痺していたのだろう。
学校にいるときから、労働者は、行動を規制するいくつかの社会的規範――時間尊守、効率、服従、生産性、家族愛、あらゆる権威形式の承認――を実行するように「訓練されて」きているのです。
このような教育的訓練は支配的イデオロギーへ労働者を従属させることを目指しています。言い換えれば、労働者は支配的な――または支配的でない――イデオロギー、すなわち社会の――覇権を握るものであれ、副次的なものであれ――規範と価値に構造的に服従した主体なのです。(「哲学について」ルイ・アルチュセール)
昨日のことだが、いよいよストレスがピークに達し、机をなぐって指を怪我してしまった。自分でもおそろしい怒りで、ほとんど動物的な衝動だったのだが、止血しながらこの怒りの蓄積は何なのか、と考察した。仕事で疲れているのか、性的な欲求不満か、胃腸の具合が悪いのか……そうではなく、自分が隷属してあることに対する怒りであることがわかった。「労働者」はすべて、自己に対する裏切りをしているのである。このことに気づいた。目がさめる思いであった。

「自分がいちばんおいしくなったとき、ひとに食われつづけるのをやめよ」……ツァラトゥストラはかく語りき。まあ就職する前から「労働者=奴隷」ということに気づいていたんだけど、適応というのは恐ろしいもので、労働者のなかにあると、自然に「労働教」に染まってしまったようだ。

来年はぜったいに無職になるぞ、というのが私の目標である^^
私は高貴の生まれゆえ、他人の道具にはなれないし、
他人の命令に屈服するわけにもいきません。
世界のいかなる主権国家に対しても
重宝な召使になったり、手先になったりはできないのです(「ジョン王」シェイクスピア)

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