12.29.2016

奴隷教育・去勢教育

資本主義社会では財界が教育に介入することは自然なことだ。たとえば「単純労働を厭わない労働者を作るための教育をしてくれ」、まあ別の言い方をすれば「忍耐力のある社会人」を教育によって作り上げてくれ、という要請は我々が思っている以上に当たり前になされている。

考えてみると子どもたちも「ブラック」な環境に置かれている。私の家の近所では高校生が夜の9時まで野球の練習をしている。また高校生たちは受験勉強のために一日12時間ほど勉強している。ブラック企業は根本を辿れば国家支配の矛盾に行きつく。

財界の要求はいらん教育をするなというものである。つまり少数のエリートと大多数の単純労働者があれば経済社会は成り立つのであり、だいたいこの比率を3%にしようということになった。それで単純労働者は大学などいかせずに、「黙って言うとおりに働く」効率の良い労働者に育てよう、という要求が80年代くらいにあった。(渡辺治)

人間性を育む、という意味での「教育」が虚像であるのは自然なことである。だれだって統制力のある「強い国」が良いのだ。だれもが主人になったらだれが泥臭い仕事をするのか。統治とは矛盾を孕むものだ。

私は最初この支配構造に吐き気を催したが国のあり方としては自然だな、と思い納得することにした。教育ってそういうものだよな。私の親戚は教師が多いが、まあろくでもない説教屋ばかりが教職につく。あるいは教師だからろくでもない説教屋になるのかもしれない。私は死んでも教職などなりたくなかったが、その理由は教員は統治システムの従事者であり、警察や自衛隊と変わらないからである。

また私個人の経験として、教育システムには嫌というほど辛酸をなめさせられた。私は何度殴られたか、精神的暴力を受けたかわからなかった。恫喝、恐喝は当たり前、顔をひっぱたかれたし、みぞおちを殴られたことがあるし、髪をつかんで引きずられたこともある。日本の教育現場は刑務所も真っ青の恐怖支配である。そしてそれは是正される気配がなく、学生は自己を作り直し、その縦構造をのみこんでしまうよう指導された。その環境の劣悪さはフォアグラ工場のようであった。

ちなみに私の通った中学と高校は低偏差値校である。ごみ溜のような学校だった。私は学校とは暴力の支配する場だと考えていたから、大学へ入ったときにすごいショックを覚えたものだった。まあ大学職員にもろくでもないのはいたが。

かといって教師が悪いわけではないし、財界や官僚が悪いわけでもないと思う。ドストエフスキーの言ったように、人間はどんな環境にも慣れてしまう。自分がしていることの意味を考えなくなってしまう。それが人間のサガなのだろう。盲人が盲人を手引きしているような国だな、と私は諦観したのである。


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