12.05.2016

三十五度の仰角

書かない間にいろいろなことがある。

例えば美容整形を受けてみた。

例えば西成のドヤに泊まった。

遊郭へ遊びに行った。

そんな様々な事柄がある。たぶんここを読んでいる人は、とても興味をそそられるのではないかな。でも、書いてみて辞めてしまった。

何かを犠牲にしなければならない……。大事を成すためには、それ以外のほとんどを犠牲にしなければならないのだろう。そういうわけなので、私は「よく書くために、書かない」をモットーにしてみた。ここ最近のことだけど、そうすることにしてみた。

読書はしっかりとしている。読書をすると、いろんな思いつきがあらわれる。頭の中で、ニーチェとフーコーとヴェイユが会話していたりする。

この三人が私は好きだけども、エイズで死んだホモと、梅毒で死んだ狂人と、(たぶん)処女で死んだカトリック信者というわけで、どうも人好きのしない連中である。

アドラーを読んでいたら、「仕事」「交友」「セックス」が十分満足であれば、人は精神病などにはならないというようなことが書いてある。ストレートなフーコー、ルー・ザロメと結婚したニーチェ、子持ちのヴェイユだったらどうなるのだろうか。

ゲイは精神的な歪みが原因であり治療可能であるという観念は1900年代前半には当然のように言われていた。それがいつしかゲイはひとつの人種のような扱いになった。私もゲイは歪み以外ではないと思う。ゲイを公認しようという昨今の流れには合意できないし多分シオニストの策略なのだと考えている。

大阪の書店に行ったらビジネス書が山ほどあった。資本社会に迎合しそのなかでがんばろうと思える盲目的人間は幸いだ。

ビジネス書のような本を書いている人間は死にたくならないのだろうか。超訳ニーチェだのアドラーの言葉だのを見ていると日本人の教養ってほんとうにだめだと思う。なんで直接ニーチェやアドラーを読まない……。ぜんぜん難しくないのに。

私の感覚では日本人はバカばかりだと思う。たとえば輸入して買えば8千円のコートが日本では3万円で売られていたりする。しかも輸入物より品質が落ちていたりする。それを平気で買って「俺は金持ち」「俺はオシャレ」とドヤ顔している連中の恥ずかしさ。

「オロビアンコ」とかいう、エセイタリア製革メーカーにつられるダメ日本人。

いつの時代も大衆は馬鹿だろうが日本人は輪をかけてバカだと思う。搾取されていることに気づかない。気づいても、まったく声をあげない。

たぶん教育のなかで、抑圧的条件を受容するように何万回もトレーニングされているのだろうと思う。これは日本の「伝統的文化」などではなく、国家統制のためのシステムだ。もっと言えば、日本という国自体をcontrollableにするための機構である。しょせん敗戦国とは、こういうもの。「過ちは繰り返しません」。

その結果が自殺だったり精神的、物質的貧困だったりするわけだけれども。しかしうまい統制だな、と私は感心してしまう。やっぱり日本は帝国主義的だと思う。国民の力を抑える方向に持っていくのが、帝国主義。抑圧が行きすぎると、去勢された国民ができあがる。日本人は世界一セックスをしない国民だ。

私自身のこと。女性恐怖を克服しなければならないと思う。女性との和合を果たさなければ……。このままではニーチェのようになってしまう。永遠を目指す人間は両極だ。片方は孤独に創造の世界を生きる。片方は子孫繁栄を追求する。

岡本太郎などは、子どもを作らないのかと言われて、「芸術とはそういう簡単な創造をしないことだ」と言っていた。真理なのだろうが、でもぜったい太郎ちゃんは後悔して煩悶することがあっただろうなと思う。子ども好きそうだし。

私はできることなら両方のいいところ取りがしたい。難しければやはり創造家の道なのだろう。
わたしの涙をたずさえて、あなたの孤独のなかに行きなさい。わが兄弟よ。わたしが愛するのは、自分自身を越えて創造しようとし、そのために破滅する者だ。――
 ツァラトゥストラはこう言った。
ちくま学芸から出ているニーチェの漫画(ではなくバンド・デシネというジャンルらしい)を立ち読みしたのだが大変良かった。買おうと思ったが立ち読みしている間に読み終えたのでやめた。やっぱり、ニーチェの生涯は良いものだと思う。

煮物が煮えたのでこれまで。



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