1.05.2017

ベジタリアンに関する所感

ベジタリアンに対する違和感がある。

私はベジタリアンではない……。昨日のメインディッシュはぶり大根であった。そして今日のお弁当も晩御飯もぶり大根……。

私は魚や卵も食べる。ただ、豚肉や牛肉のような四足獣は滅多なことでは食べない。しかし「頂いた」場合は食べることにしている。つまり上司や知人や親戚が食え、と言ったら食べることにしている。

自主的にスーパーで畜肉を買うことはない。たまに惣菜に鶏肉が入っていたので、しょうがなく食べる、というくらい。

こういう立場であるので、私は自分をベジタリアンだと思っていない。しかし、世間一般の肉食家とは異なると自分では思っている。私は焼肉やハンバーグを喜ぶ類の人間ではないからである。そういう料理には吐き気がする。

植物と動物の区別を持っている点では、私は自分をベジタリアン的だと認識している。

さて、世間一般のベジタリアンは嫌われている。それは声が大きいからだと思う。

世の中には「ベジタリアンであること」をブログや本にする人がいる。また世間一般に広く啓蒙しようとする人がいる。私はそのような姿勢に違和感を覚える。

私は肉食をしないことを優れたことだと思わない。それは自然なことだと思っている。野菜や穀物が十分にあるのであれば、あえて肉を食べる必要がない。

だから私はスーパーの鮮肉コーナーは素通りする。それは「消極的なノン」である。

私が声高ベジタリアンに違和感を覚えるのは、菜食主義がひとつのイデオロギーと化していて、生活に結びついていないのではないかと思うからだ。

だれかが肉を食べることにぎゃんぎゃん騒ぎ立てることは、不自然であり、非効率的だ。

食品の成分表を見て、ラードが入ってるから食べない、なんてことをしていたらストレスが溜まるだろう(ムスリムならわかるが)。第一滑稽だ。

肉食は当然のものとして退ける。だれかが強く勧めたら、しぶしぶ食べる。そういう「静かなノン」が私は自然だと思う。

賢い人間は、特に「啓蒙」せずとも菜食化する。人にとって菜食が自然だからである。

たとえば、キリスト教は肉食を肯定するような教義が盛り込まれている。なかば洗脳として正当化しなければならないほど肉食は不自然ということだ。(「肉食の思想」という本に詳しい)

私が声高のベジタリアンの存在を懸念するのは、その声の大きさによって賢い人間が菜食化することを逆に遠ざけるのではないかと思うからだ。

明日も太陽は昇るだろうと主張する人はいない。声の大きい主張ほど、人は不信がる。

静かに菜食を実行することがbest wayだと思うがいかがだろうか。

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