1.15.2017

内省の発明

TEDの動画を見ていたら、人間が内省をはじめたのは紀元前600年頃という記述があり、これはけっこう大きな発見なのではないかと思った。発見というか、科学的な実証というべきか。

事実 心理学者ジュリアン・ジェインズは 人類最古の書物のいくつかを対象に ある種の心理分析を行い 1970年代に 非常に奇抜で過激な仮説を立てました わずか3千年前の人類は 現在の私たちの呼び方でいえば 統合失調症だったというのです この主張の根拠はこうです これらの書物に登場する 太古の人間たちは 終始一貫して 文化的・地理的な違いにかかわらず 何かの声を聞き それに従うように行動しており それを神の声やミューズの囁きと考えていた それを神の声やミューズの囁きと考えていた 現代の私たちはこれを幻覚と呼ぶでしょう そしてその後 時代が進むにつれ 古代人たちは自分たちが 内なる声の創造主であり 所有者であることを 認識し始めた これによって人類は内省 つまり自らの思考について 考える能力を手にしたというわけです……
 ホメロスの伝承の時代には 内省に近づいた書物の増加傾向は小さく しかし紀元前4世紀ごろになると この傾向が急激に増え始めて 5倍近くになり 書物がどんどん どんどん 内省の概念に 近づいていったことが分かります ……
ユダヤ・キリスト教の伝承に対し 同じ分析を行ってみると 結果 ほぼ同じパターンが出てきました ここでもやはり 最古の旧約聖書では 緩やかだった上昇傾向が 後の新約聖書になると 急激に高まります(マリアーノ・シグマン「言葉から、あなたの将来のメンタルヘルスが予測できるとしたら?」

ひとはなぜ内省するようになったのだろう?内省を発明したのだろう?ミューズはなぜ囁くことをやめたのだろうか。

・孔子は紀元前551年〜紀元前479年
・ソクラテス 紀元前470年〜紀元前399年
・釈迦 紀元前560〜紀元前480年、紀元前463年〜紀元前383などの説あり

この紀元前500~400年頃のあいだに、まったく異なる地域で哲学や倫理のような「内省」が発明されたというのは不思議なことだ。人類がなぜその時点で改変されたのか。

我々は仏教に興味をもったり、教養としてソクラテスを読むことはあるけれど、それ以前のことにはたいした興味を抱かない。現代に続く世界は2500年前から始まっており、ソクラテスに共感することはあっても、タレスやヘラクレイトスに感銘を受けた、というひとはあまりいない。

それもそのはずで、ソクラテス以前のギリシャ哲学者の文献はほとんど残っていない。また残っていてもおよそ「読み物」と言えないような詩文ということである。考えてみると、それらは広く読まれることを想定していなかったのだろう。

孔子や仏典、ソクラテス=プラトンのような教義は、言ってしまえば「だれにでも理解できる」教義であって、「大衆向け」である。解釈は無限に広げることはできるけれども、「無知の知」だとか「イデア論」、「一切皆苦」とか、小学生でも理解できる内容である。

そういうわけで、こうしたわかりやすい散文形式により、「内省」が拡散された。また、新約聖書もツッコミどころ満載の旧約聖書に比べると「わかりやすい」内容となっており、そこでいっそう「内省」が普及したことがわかる。

昔読んだ本のなかに、「以前は小説はサロンのようなところで朗読するものだった。近代以降になると、それは個人的なものになった」とあって、人類の内省はどんどん深化しているのではないかと私は思う。内省は主体と主体の関係を強くし、他者と主体とをいっそう切り離すものであるから、個人主義的な社会とは「内省」発明の延長とも言える。

私が「内省」に強い関心を抱くのは、神経症との関係があるのではないかと思うからである。神経症とは、まさしく内省に手足をとられ、前に進めないような疾患だからである。

それだからヒポコンドリーな人間が哲学や芸術に興味を抱くのはある意味で必然なのだが、私は根本的に「内省」が幸福をもたらすとはあまり思えない。私はソクラテス=プラトン以前の哲学に興味があるが、同じようにソクラテス以前に興味を抱いていた哲学者にニーチェがいて、やっぱニーチェ先輩はすごいな、と思うのである。

ニーチェは「プラトンとキリスト教」を同じくくりにして弾劾する。現在この二者にあまり関連性はないという判断が一般的にせよ、しかし「内省」という点ではこの二者は決定的な働きを持っている。

またニーチェは仏教も嫌っており、とくに東洋哲学に傾倒したショーペンハウエルに(はじめは強く共鳴しつつも)やはり批判をぶつけるということをしている。そしてニーチェの主著である「ツァラトゥストラ」は「ゾロアスター教の教祖」ということになるのだが、なぜゾロアスター教?という疑問にあまり意味はなく、単に「内省以前」の世界、歴史的にも距離的にも遠い領域を求めていたのだろう。

内省以前の社会とはなにか?それは私にとっては、「神経症以前の社会はなにか?」ということになる。それだから縄文文化とか、そういうものに強く惹かれるおじさんである。有り体に言ってしまえば、私は哲学や科学による世界よりも、神話が生きている世界の方が幸福であると思う。

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