1.19.2017

孤独とおっさん

あまり自分のことばかり関心を持っていてもしょうがない……というふうに思うようになった。

「汝自身を知れ」というけれど、自分にばかり関心を向けるのはどうなのか……と。それは西洋的な誤謬であって……自己と他者は切り離せないのだから……いたずらに他者に関心を向かわせるのも誤謬だが……自己と他者の境界をなくすこと。自己があって他者がある、というのでなし、他者があって自己がある、でもなし、自己と他者の分離以前に戻ること……これが大事なのではないかな。つまりメビウスの輪であって……自己を辿れば他者があり、他者を辿れば自己がある、表裏一体というか、表裏分離以前なのである。

結局、人間は社会的動物であって……「理性」とか「内省」は自己を肥大化させ、他者を貶める傾向にあり……変な方向にベクトルが伸びていって、ポリスだの民主主義だの「もっともらしい」理念として伸長したものの……実際それが、文化的政治的ヘゲモニーではあるのだが……私としては、ソクラテスよりも、その処刑を支持した民衆の方に興味が沸く。つまり、ソクラテスは誤謬と迷妄によって死にいたったのか……より深い叡智によって抹殺されたのか……われわれが信奉しているのは、ひとつの大きなハリボテなのではないか…
…。

山本七平の本のなかで、日本と西洋の感覚の違いを端的にあらわす例が挙げられていた。
『西洋紀聞』において彼(新井白石)は、潜入宣教師シドチの要望を次の二点で斥けている。まず、シドチの「自分はわざわざ日本に来たのだから逃亡する気遣いはじめから無用である。また来た以上、日本の法にすべて従う決心でいるから、費用をかけて拘禁しておく必要もあるまい。自分はただ教を説くことさえ許してくれれば十分、望むことはそれだけであり、外面的規制では幕府の法に百パーセント従うから、違法の行為をするか、結果としてそれが発生したらそこで取り締まればよいであろう」といった意味の発言に対して、日本では「治=法=外面的秩序」と「教=教育=内心の秩序」とが一致しており、そのようには分け得ないとの返答である。(「日本人の人生観」)
この考えはいまでも受け継がれており……私は25歳くらいのときに、日本が法治国家ではないことを知って愕然としたのだが……そんなことは割りと当たり前のことだったのだと思う。J.S.ミル的な「法律を破らなければ何をしてもよい」という根本的な法概念は……ありえない!だってここは、アジアの極東であるし……。オモテは西洋の支配を受ける従順な経済国だが……。内心はヘゲモニックな文化に反発している……牙の抜け切らない旧来的な民族もいるということだ。

その民族的屈辱が、安倍晋三の大国志向としてあらわれているのではないか……。日本人は「正しいことは正しくない」と叫んでいる。この感性はきわめて人間的であり……また詩的であり、高度な表現として響く……。しかし西洋……アリストテレス的な考え以前では、世界的に主流だったに違いない。おそらくソクラテスを処刑したアテーナイの人々も、「ソクラテスは正しいが、正しくない」と考えており、表層的な言葉遊びではなく……精神の深くの衝動に対する信頼をまだ失っていなかったものと思われる。

つまり動物的、本能的な感性……理性によって捕らえ得ない対象……霊感のようなもの。人間は本来そういう霊的感性をもっており……そういう感性は、学校教育やマスメディア教育、集団主義、抗精神薬や、企業文化、消費文化などなどによって徹底的に潰されるようにできており……どんな国でも従順な国民が欲しいものだし、考えないコマがなければ国は維持できないのであるし……そういう人間を劣化させる、道具化させる装置として「理性」は与えられ……実際それに生を毀損されたまま生きる人もいる。理性とは、本来そういう道具ではなかったかな。ソクラテスやアリストテレスが現代でも信奉されるのは、理性装置の一個の神話だからなのだろう。

と考えてみても、理性に束縛されて生きる人はそれほど多くなく……多くの人間は人間的繋がりによって「非理性的理性」を有しており……結局孤独な神経症者である私が、こういう理性の強迫的な圧力に恐怖しているだけ、というのが実際なのではないか、と考えたりする。

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