1.29.2017

哲学と権威主義

私は高杉晋作」というブログが気になっている。私のひとつ下の年齢で、自称哲学者で、ハンナ・アレントが好き。

私と同様、ニーチェとか、オルテガ・イ・ガセットとか、シモーヌ・ヴェイユとか、そういう近代の実存主義的な哲学者をいろいろ読んでいるし、また好んでいる。

私と似ているのは、ハンナ・アレントを読んでいてもベンヤミンを読んでなさそうだし、ハイデガーやカントなど「正統的な」哲学を学んでいないところ(多分)。言ってしまえば、ディレッタント的な読み方だ。本腰を入れて難解な・体系的な哲学に取り組むタイプではない。

もちろん私もハイデガーやベンヤミンは読んでいない(眠たくなるからね)。それよりもニーチェの箴言をぱらぱら読んでいる方が楽しい。

でも、彼のブログを読んでいると、哲学ってなんだろう?と考えてしまう。

彼のやっていることは、自分の考えに有名人の言葉を借りて、権威付けするだけ。「私はこう考える。ハンナ・アレンもこう言っていた。ニーチェもこう言っていた」ほとんどの記事がこのパターンだ。

あやしい健康食品も「○○大の○○教授推薦!」とコピーをつければ売れるように、ある種のごまかしのようにも見受けられる。

もっと根本的には、アイデンティティのぐらつきを、権威主義によって補っているところがあるのだと思う。少し彼のブログには、精神な脆さ、危うさを感じる。

私のブログを読んでいる人ならわかるだろうけど、私も五十歩百歩だ。私も「○○先生がこう言っていた」と引用することが大好きだ。自分が教養深いように見えるし、説得力が増すから。そして何よりも、自分が正しいように思われるから。

私が彼のブログを読んで感じるのは、少しの寂しさだ。つまり、哲学者の引用をいくらしようとも、彼の根本的な姿勢が、ほんとうの意味では、哲学とは反対の方向を向いているように思われてならないのである。このことの意味は、彼が「考えない」ために哲学書を読んでいるのではないか、ということだ……。

私も彼のように、哲学者に「すがって」生きるようなときがあった。「私は正しいに違いない。なぜならニーチェもこう書いているからだ」……そういうふうに、哲学者に助けられながら生きた時期があった。そうでなければ、倒れてしまいそうだったからだ。あのときは、哲学者たちははるか遠い神話的な英雄だった。

いまは、そうではないと思っている。いまの私にとって、ニーチェは精神的に不安定なおっさんだし、シモーヌ・ヴェイユも……現実にはあまり関わりたくない、よっぽど頑固な変人だ笑 なんというか、たしかに彼らは天才だけど、「絶対的に正しい」という意味での、権威的な天才とは違うと思うんだよな。

神格化されている存在の、権威のヴェールが消える瞬間というのがあると思う。例えば、父親はもっとも偉大であり、神のような完全な存在だ、と幼少時はだれしも考えている。ところが成長してみると、父親はどこにでもいる大したことのないおっさんで、禿げてるし、弱ってきているし、変に馴れ馴れしい生き物だ、と感じるときがくる。(本当に父親が完璧人間だった場合、子供は無力感に打ちのめされて歪んだ大人に成長することが多い^^;)

そういう意味で、哲学者から独立して、権威付けなしで読み解くことができるときがくる。彼にもやってくるだろう。ただ、それは哲学書を読むことではやってこないだろうな。なんというか……。本当の意味で実存しないと。実存というか、ひとりだちだな。

哲学って、哲学書を読むことじゃなくって、世界に関心を向けることだからね……。と思ったディレッタントのおっさんである。

攻撃の意図はないので悪しからず。

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