1.08.2017

また不幸がやってきたが

ここのところ、精神的に安定しない日が続いている。衝動的に酒を飲む。ジャンクフードを食べる。自慰にふける。読書をしなくなる。精神的に落ち込むと、こういう依存傾向と精神の幼児化が出てくる。これらの快楽が、一時的なものであり、余計に苦しみを強くすることを私は知っている。

ただ、いったん「酒を飲みたい」と思うと、これはもうよくない。抜け出せない。衝動があらわれたとき、歯車はもう動いてしまっている。そのとき、私は意志に従うしかない。どこからか?と自己に問いただす……その衝動が自覚的になるよりもずっと前であることがわかる。

もう運命を捻じ曲げようとするほど子どもではないので、「ああすればよかった」と後悔することはない。意志で禁酒は続けられない。禁酒そのものを志向するのは間違いだ。それよりも、環境を整えること。ストレスをなくし、人生を充実させること。私はストレス・コントロールで失敗した。責めるべきはそこにあるだろう。酒を飲んだことを責めてもしょうがない。

抑うつ的な状態は生きているとどうしても発生する。あまり、具体的なエピソード――女にそっけなくされたとか、仕事の失敗とか――は関係なかったりする。つまり、「こういう出来事があったから私は憂鬱だ」とは言えないときがある。身体的な負荷により憂鬱になることがあるし、ホルモンバランスや栄養不良によって憂鬱になることがある。波が引いて岩礁があらわれるとしても、私たちは岩礁のせいで波が引いたとは思わないだろう。

岩礁に執着すると、結果を見誤ることがある。自分を不幸にした人間を恨んだり、状況を改善しようとしてさらに悪化することがある。憂鬱な気分は、ただ、屈服するしかない。じっと耐え忍ぶこと、これが最善の策であることを私は最近悟った。

考えてみると、不幸、絶望、苦しみということが私の人生の大半を埋め尽くしていた。私は「苦しみぬいた」おじさんであり、そのための対処法はいろいろ詳しいのだった。


心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕らえることができる。(君たちはどう生きるか/吉野源三郎)
真の運命を正しく耐え、率直に苦悩することは既にそれ自身、行動であり、また人間に許される最高の行動であり、業績(ライストゥン)であるということである。(神経症 その理論と治療/V.E.フランクル)
この世のすべての苦しみと悲嘆の原因は無知である。
無知こそが唯一の罪であり、あらゆる苦しみはその結果なのだ。(自由からの逃亡/E. フロム)
それはあなたの罪ではありません。あなたの不幸です。あなたを責めるのは無理です。他人の罪です。その他人の加えた傷害のために、あなたはそのように苦しんでいるのです。そのために自分の一生の幸福さえも諦めようとしているのです。何という事でしょう。私はこの事実を呪います。恐ろしい事です。不合理な事です。皆悪魔の仕業です。おお、私は悪魔に挑戦します。(出家とその弟子/倉田百三) 
死を恐れ、不快を厭い、災いを悲しみ、思う通りにならないことを嘆くなど、みな人の感情の自然であることは、ちょうど水が低きにつくと同様である。……すなわち、いずれも自分の都合のよいようにばかりはできない。自然に服従するより外に仕方ないのである。
……
不可能を不可能として、それに服従することを正信といい、因果の法則を曲げて不可能を可能にしようとし、我と我が心を欺き、弥縫し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。(神経質の本態と療法/森田正馬)
苦痛もある段階に達すると、世界がぽろりと落ちてしまう。だが、そのあとでは、安らぎがやってくる。それからまた、激痛がおこるとしても、次にはまた、安らぎがやってくる。もしこのことを知っていれば、この段階がかえって次にくる安らぎへの期待となる。その結果、世界との接触もたち切られずにすむ。(重力と恩寵/ヴェイユ)




とくにこのヴェイユの文章は、不幸マエストロのおじさんの琴線にびびびっとくる。「重力と恩寵」はよくわからない記述が多いがたまにはっとする内容がある。

人はだれでも孤独で淋しいものである。
不幸は認識の目を開かせるものである。

そういうことを考えておけば、あまり不幸に苦しまなくなるのだろう。

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